お寺で、平和を学ぶ —ダイアログ・イン・テンプル—

みなさんは「平和って何?」と聞かれたら、どんな風にこたえられるでしょうか。「平和とは何か」「どうしたら平和が訪れるのか」「平和の為に私たちは一体何ができるのか」どの問いに対しても明確な答えがあるわけでは決してないでしょう。しかし、だからこそ、一人ひとりが、自らの平和を願う心に気づいていく様な時間を持ち続けること、平和に関しての学びを深める時間を持ち続けること、そして、平和に関する想いを、世界と共有していく時間を落ち続けることが大切なのではないでしょうか。

そんな想いで、2017年8月31日、若手僧侶を中心として「お寺で、平和を学ぶーダイアログ・イン・テンプル」が京都市下京区内浄土真宗本願寺派一念寺で開催されました。

平和

当日は、浄土真宗本願寺派総合研究所の丘山願海所長をお招きし、「仏教から考える平和」「消極的平和と積極的平和」などをキーワードに、平和について学ぶ時間、参加者同士の対話を通じて一人ひとりの平和の心を認識する時間を持ちました。まず、丘山所長のお話からご紹介したいと思います。


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ゲスト:丘山 願海(おかやま がんかい)所長:1948年東京生まれ。京都大学・理学部・物理学科卒業。76年東京大学大学院・人文学研究科・印度哲学・修士課程修了。79年財団法人東方研究会専任研究員80年中国・北京大学留学、86年日本大学文理学部専任講師、90年東京大学東洋文化研究所助教授、92年ミュンヘン大学客員研究員、94年より東京大学東洋文化研究所教授を、経て現在浄土真宗本願寺派総合研究所所長。主な著書『アジアの幸福論』『定本 中国仏教史』『菩薩の願い』。

 

—幼い頃の夢と平和


みなさん、小さい頃、夢はありました?どんな夢でしたか?

なんでそんなことを言うかというと、信じてもらえないかもしれないですが、僕は、小学校だか、中学校だか、よく覚えていないのですが、とにかくこの世界から戦争とか争いをなくしたい。もう一つは、僕らの心から憎しみをなくしたい。と昔から思っていたんです。これが実現できない様な世界ならば、自分が生きている意味なんて、ないんじゃないかなぁとまで、考える様になりました。勿論、だからぼくが偉いんだよ、というわけではなくて、すごく気になっていたんです。

 

—戦いの根っこにあるのは人間のエゴ


大学終わった後に、自分のことを見つめなきゃいけないかぁと思って、仏教のことを勉強しました。それで思ったのは、人間って、自己中心的で自分さえよければいいっていう、人間のエゴイスティックな在り方をするっていうことです。僕らはいざとなると、自分を守ろう、自分を優先しようとするんですよね。それは家族単位とか、社会単位とか、民族単位とか、国家単位で。そして、よく考えてみると、国家でも民族でも家族でも構成しているのは人間じゃないですか。構成している人間がエゴイスティックだったらその集団もエゴイスティックになるに違いない。そうすると、僕らはとにかく自分の自分優先っていうところをぬけ出られない限り、戦争なんかも無くなりっこない、争いも無くなりっこないと思うんです。だからといって、僕は全ての問題が心の問題と思っている訳じゃ全然なくて、現実の戦争はやはり踏みとどまらなきゃならないと思うんです。ただ、究極的には、やっぱり僕らが自己中心的な人間の在り方を超えない限り、戦争や差別、経済の格差はなくならないと考えています。

それは、あきらめるっていうんじゃなくて、大前提でそこは覚悟をしておかなきゃならないんじゃないかと思っているんです。僕らは生きている限り、争ってでも自分のいい方向に持って行きたいっていうことと、いやこれじゃいけないんだ、っていうことの葛藤だっていうことだと思うんです。

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—消極的平和と積極的平和


また、世界的に平和について考えるとき、ここ数年、「消極的平和」と「積極的平和」って2つの言葉を聞きます。もうご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「消極的平和」というのは、今までの平和の感覚です。例えば、戦争のない状態が平和と考えるということですね。バランスオブパワーっていうやつ。力の均衡で平和を保つというスタイルのことです。力と力でバランスをとっていくということですね。皆さんも大体、力の均衡で考えているんだと思うんです。でもそうであれば、この世から戦争はなくならない。

もう一つの、「積極的平和」って言うのは、戦争が起こる様な経済格差とか、貧困の問題に取り組んでいくということ。要するに、みんなが幸せになれば

いいんですね。みんなが喧嘩にならない様な社会を作っていこうよっていう。それには様々色々なことがあるでしょう。その一つ一つに取り組んでいきましょう、というのが積極的平和っていうものなんです。

 

—仏教から考える平和


最後に仏教から「平和」っていうことをもう一度考えて行きたいと思います。僕は、お釈迦さまって本当に天才的だと思うんです。人間の本質を「自己中心性」に見いだした。これをもっと世界的にアピールしていったらいい。いくら時が経っても、今でも価値が変わらないってすごいことだと思うんです。

仏教って大枠で言うとお釈迦さまが紀元前5世紀くらいに出てきて、欲望をなくすとか、愚かさをなくす叡智を獲得していくという、個人的なことで修行をしていくんですね。実は、あんまり、人様のことは関係ないことですね。


お釈迦さまの人間関係観というのは、もうご存知でしょうけど、「愛別離苦」といって愛する人と別れていかなければならない苦しみ、「怨憎会苦」といって嫌な人とあわなきゃならない苦しみを言うんですね。そして人間関係を断ち切って修行しなさいっていうのがお釈迦さまの考えだった。個人がこういう煩悩的な在り方から解放されて、この世界から超越していくという。そんな中で、紀元1世紀あたりにインドで大乗仏教、ヨーロッパ世界ではユダヤ教や、ギリシャの思想をベースとしてキリスト教が出てきて、中国でも道教ってのが出てきたりするんです。僕はこれ紀元1世紀頃に、個人探求から「人と共に生きていくことの大事さ」っていう、限りない価値を人間は見いだしたという風に思うんです。だからこそ、隣人愛を最高のものとするし、大乗仏教は慈悲とか利他業ってことを言い出すし、歴史的にはそんな風になっているんです。ただお釈迦さまは偉い人なんで、時代を超えて先駆的に「一切衆生は安穏なれ」とかいろいろなことを言っています。他にも「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」と。それから、有名なのは「恨みにたいして、恨みをもって応じれば、ついに恨みはなくなることがないんだ。」という言葉。これはたまに、国際的にも引かれるんです。

また、仏教では、兵戈無用(ひょうがむよう)といいます。仏教の教えが広まってこそ、武器なき世界が実現するんだと、仏教が広がってこそというのは、人間が自己中心的な在り方をどう克服していけるかっていうそういうベースが変わっていってこそ、社会が変わっていくだろうという仏教の平和ってそんな感じです。

 

丘山所長のお話の後には、参加者同士の対話の時間をもうけ「平和とは何か?」「平和の為に一体自分に何ができるのか?」ということを、話す時間を持ちました。そして、最後に、平和に関する想いを、世界と共有していくという意味で、一人ひとりに平和に関するメッセージを写真に残しました。

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2017/10/30更新