いま葬儀を問い直す│国立歴史民俗博物館 副館長 教授 山田慎也さんインタビュー<前編>

 

なぜ「葬儀は要らない」のか

 
――それでは逆に、なぜ葬儀は不要だという考えがあるのでしょうか?
 
山田:自分たちが共有できるかどうかではないでしょうか。儀礼は慣習性がありますが、これを当たり前として受け入れられるかどうかです。異質なものと感じたり、従来の形式への抵抗感を感じた時、必要ないという認識になってしまうのではないでしょうか。
 
そもそも、現代の葬儀のあり方は制度疲労を起こしている面があります。家的葬儀の枠組みを戦後、だましだまし維持してきました。檀家制度の枠の中で、戦後も仏教への需要があり、バブル期までは仏式葬儀が盛んで、故人の救済に仏教が必要だ、という社会の認識がありました。その後、少子化やグローバル経済化等によって、家族の形態や経済状況も大きく変わっていきました。家から個人に葬儀の中心が移る中で、個人がきちんと送られる仕組みをつくらなければいけないのですが、対応が進んでいません。
 
これまで、死の問題は家族が対応するのが基本でした。例えば生活保護の葬祭扶助も主催者に対する扶助であり、故人本人に対するものではありません。安心して老いて亡くなっていくためにどのような支えが必要なのか、社会全体で考える必要があります。生前は行政による福祉や介護のサービスなどがありますが、亡くなったとたんに行政の対応は乏しくなります。政教分離の原則から宗教が関わりづらい面があるのかもしれません。死の問題は宗教者がむしろ積極的に関わっていく必要があると思います。
 
そもそも、社会の変化に対して、仏教が十分に対応できているかどうか疑問です。一部では、権威主義的なお寺への批判もあります。もちろん、過疎地域で疲弊しながらも頑張っておられる僧侶も実際には多いのだと思います。ただ社会とお寺の感覚が乖離する中、積極的にアプローチしてこなかった印象があります。あと10年くらいは逃げ切れるかもしれませんが、一世代代わると、読経や宗教儀礼が行われなくなるのではと危惧しています。
 
派遣僧侶に依頼するのはまだよい方で、まだいまは僧侶に読経してほしいと思ってくれている、最後のチャンスかもしれません。葬儀や供養が必要だ、ということを仏教界全体でもっとアピールしなければならないでしょう。そのときは利益を全面に出さず、不信感を解消していくことが先決です。お寺の伽藍についても、寺族のものではなく、信者やみんなのものだということを、どのように認識してもらうか工夫が必要です。
 

遺骨を埋める墓穴掘り(写真提供:山田慎也先生)

 
――よい葬儀とは何ですか?
 
山田:遺された生者が死を事実として受けとめていくことができる葬儀でしょうか。時間がかかっても、それぞれの死生観をもとに受けとめる場としての儀礼が必要で、ほかのものでは受けとめられないと思います。また、死にゆく当事者もある程度みずからの死生観を構築して死を迎えることと、社会も死を認識しれ、共有化していくことも大事だと思います。
 
葬儀に関する世間体や強制力は弱くなっているので、これさえやっておけばよいというものはなくなり、選択できるようになりました。だからといって、ゼロからつくるのも難しいと思いますので、過去を学びつつ現代の状況に合わせて、納得できるものを選択していくことになると思います。一般の人々に対して、正しい情報を示しながら信頼関係を構築していくことが重要です。特にインターネットの情報は玉石混交ですから、情報の海の中に投げ出されてしまいがちですので丁寧な発信が求められます。
 
インタビューは後編に続きます。
 

   

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掲載日: 2023.03.22

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