自分のままで、変化する。長い階段をゆっくり登るように引きこもりから回復した話

不登校、引きこもり支援を行うNPO法人こころのはな、山科 達規(やましな たつのり)さん。引きこもりから抜け出していく人々の歩みに寄り添ってきた山科さん自身も、引きこもり経験者です。なぜ引きこもりになったのか、そしてなぜ引きこもりから抜け出したのか、お話をうかがいます。
 
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第1回 「不登校・引きこもり・貧困・DV…お寺にあるNPO法人が続けてきた支援のかたち」
 
 
引きこもりの定義から、漏れ落ちてしまうひとたち
 
ーー勉強不足で申し訳ないのですが、引きこもりには明確な定義があるのでしょうか?
 
山科:行政が定めている引きこもりの定義は「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」です。これをもとに、日本国内の引きこもり数が発表されているわけですが、実情はもっと多いだろうと思います。
 
たとえば、ここの利用者さんで、おじいさんとおばあさんの介護を若いうちから必死にやらざるを得なかった女性がおられました。結局就職もできず、おじいさんとおばあさんも亡くなられて、外とのつながりは一切ないので、結果として社会的な引きこもりになってしまう。そういう方々は数に含まれていないのではないかと思います。
 
専業主婦の方で、長年家事の一切を引き受けて忙しく働いている人にも引きこもりの要素を見ることができます。ママ友もできず、家事に打ち込み、外出といえば買い物に行って帰るだけで、すべてが家のなかで完結している。こういう方々は行政の言うところの引きこもりにはカウントされていないのではと思います。
 
ーーそうすると、引きこもりの高齢化という問題も見えてきそうです。
 
山科:まさにそうで、今は80代の両親に、50代の引きこもりの子どもという構図が増えているんです。8050(ハチマルゴーマル)問題と呼ばれます。もう50歳まで引きこもりできてしまうと、どうしようもない部分がありますよね。本人にもご両親にも。身動きが取れないというか。
 
ーー引きこもりになる原因というのは、さまざまですよね?
 
山科:そうですね。友だちにいじめられた、先生に裏切られた、親同士がよく喧嘩していた、親にガミガミ言われるけど自分が耐えれば全て丸くおさまるからと我慢しすぎた……など、いろいろです。
 
ここに来られる方々を見ていて、引きこもりになる方っていうのは優し過ぎる性格であったり、真面目、几帳面、完璧主義、感受性が高い……などの傾向があるような気がしています。その性格、性質は、良い方向に振り向ければとても素晴らしい長所になるものばかりです。それを自己否定や自己嫌悪の方向に持っていってしまっているんですね、みなさん。なので、ここに来て少しでも環境を変えることで、変化していってもらえればと思っています。
 
ーー変化というのは?
 
山科:性格を変えるということではなくて、優しすぎる自分、生真面目な自分を「それが自分なんだ」と受け入れていくということです。
 
たとえば優しすぎる性格の方にありがちなのは、頼まれごとを断れないということ。「仕事を手伝ってよ」と頼まれたとき「私、今日はしんどいから無理です」とは言えないんですね。そこを断れるような人間になる、というのではハードルが高いんです。必要なのは、「今日はしんどいから明日でもいい?」とか「今日はしんどいから、少しの時間でもいい?」とか、返答の選択肢を増やしていくこと。
 
みんながNOと言う勇気を持てれば良いのでしょうけど、それはそれで負担が大きいので、自分が楽になるような選択肢をいくつか持っておくんです。
 
ーー180度性格を変えるのは無茶ですもんね。
 
山科:はい。完璧主義者の人も、全てのものごとに対して完璧を求めるような0か100かの生き方ではなく、60〜70%の力を出すことを覚えるんです。そして、ここぞというときに100とか120の力を出せるようにしておく。自分のままで、どう生き方を変化させていけるか、ということです。
 
引きこもりだった私が、NPO職員として働くようになるまでの話
 

 
ーー山科さんご自身も、引きこもりを経験されたそうですね。お話をうかがっても良いですか?
 
山科:私は高校2年生のとき、強迫性障害という病気になって、学校を50〜60日間休んだんです。付属する大学への推薦は、欠席日数が20日以下でなければもらえませんでした。なので、1年留年して1つ下の学年の人たちと卒業することにして、それまでは休学することになりました。
 
休学中はずっと家にいて、ゲームをしたり歴史小説を読んだりして過ごしていたのですが、復学が目前に迫ったころ、「このままではまずい」と私も両親も思いまして、岡山県神島で八十八か所の祠をまわる旅にでかけました。四国の八十八か所の縮小版のようなものです。
 
それぞれの祠でろうそくに火をつけて、お線香をあげて、写経した紙をおそなえしてお札を入れる、というのが一連の作業です。けれど、これが当時の私にとっては非常に困難なものでした。強迫性障害で、確認作業を何度も何度も繰り返さないと不安で動けなかったんです。ろうそくが燃え移らないかとか、これで大丈夫だったろうかとか、間違いないだろうかとか、何度も確認して全然次に進めないんです。それでも同行してくれた両親の協力もあって、なんとか2日間の旅を終えることができました。
 
「僕にもできたんだ!」という経験が自信になって、きちんと復学を果たしました。大学4年間も楽しく過ごせたんです。しかし、就職した商社の経理部でまた再発してしまいました。最初は楽しく働いていたんですが、経理部の五・十日(ごとうび)や月末の忙しさは尋常ではなく、家に帰らず同僚に泊めてもらったりサウナハウスに泊まったりしてやり過ごしていました。それでストレスが重なり、再発です。
 
会社は辞めました。少し休職したからといって、復職後に責任やプレッシャーのある仕事ができるまでに回復するのは難しいだろうと判断したからです。なので、大学院に進学して資格を取ることにしたんです。
 
治療期間、調子の悪いときは本当にしんどくて。真っ暗な自室で「死にたい、死にたい」と泣き叫んでいたとき、母親が泣きながら部屋に入ってきて「そんなにしんどいんやったら、私が一緒に死んであげるわ」って言ってくれたんです。そのとき、はじめて、こんなに母親を苦しめていたのかということに気がつきました。そこが人生の底辺だったと思います。
 
もう母親を苦しめたらあかん、と思いました。それからは病院に入院して治療を受けたり、退院してアルバイトをしたり、それも続かずまた入院したり。就職もしたけど、会社が潰れました。税理士業もしてみたのですが、会社や組織に守られない状態での仕事は私には負担が大きすぎて辞めてしまいました。それでまた自信喪失したり。結局どこにも居場所を見つけられず、家に引きこもってしまう。
 
精神科に併設されているデイケアにも通ったのですが、デイケアは家からバイクで20〜30分ほどかかるので、思い切って一人暮らしを始めたんです。そうすると、実家と違って周囲に自分のことを知っている人が全くいない環境になったことで、以前よりも気軽に外を出歩けるようになりました。その後、社会福祉法人で働いているとき、お世話になった会計の先生が、ここの副理事長に私のことを紹介してくださったことがきっかけで、NPO法人こころのはなへやってきました。もう6年以上も前のことです。
 
ずいぶん長い間、上がったり下がったりを繰り返しづつけてきましたが、いま振り返って大局的に見てみると、なだらかな右肩上がりだったような気がしています。
 

ーーー
 
生きづらさを抱えた人々は多い。けれど、置かれた状況や環境はそれぞれに異なり、それら全てを完璧に解決するような方法はどこにもありません。時間をかけて、ゆっくりと階段をのぼっていくしかないのだ、と山科さんはお話されました。次回は、NPO法人こころのはなの今後についてお話をうかがいます。
 
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第4回 「私たちはここにいます。社会の支援から溢れ落ちる人のための居場所を用意して」
掲載日: 2020.08.10