【レポ】老いを他人事として思っていませんか?自分自身で「あなた」を置きざりにしている
若い方・年老いた方、みなさんは歳を重ねていくこと、自分が生きていくことをどう考えておられますか?
老いるということは、何も年配の方だけの話ではありません。生まれた瞬間から、私たち人間は「老」が進行し、「死」に向かっているのではないでしょうか?今回のゲストの先生は「老いること=歳を重ねること=自分の生きていくこと」それをどう考えていますか?という質問をされました。
私のいのちはいつまであるのでしょうか?
いつまでのいのちなのでしょうか?
年を重ねることが、自分が生きていくこと?
一体、それはどういう意味なのでしょうか?
社会、個人が持っている「常識」を改めて問い直し、これからの生き方を考える「常識のカベ」。前回は、龍谷大学実践真宗学研究科教授、中村陽子先生をお招きして、看護の立場から、日本の医療・福祉の現場、政策やモデルのない時代をどう生きていくのかを、考えました。(「【イベントレポ】養うべきは「老人力」?2025年問題から学ぶ「老い」との付き合い方」)
今回の「常識のカベ」は、特別ゲストとして龍谷大学大学院 実践真宗学研究科教授の森田敬史先生にお越しいただき、「終末期医療から『老い』を考える」をテーマに、お話をしていただきました。続けて、参加者の皆さんでディスカッションも行いました。
森田先生は、もともと新潟県長岡市にある長岡西病院ビハーラ病棟 常勤ビハーラ僧(http://www.sutokukai.or.jp/nagaokanishi-hp/service/vihara.html)として勤務をされており、その後、実践真宗学研究科院生の教授となられました。森田先生には自身の長岡西病院でのご経験を通して、「老い」についての話題提供をいただきました。
新潟県にある長岡西病院は、主に苦痛の緩和を必要とする悪性腫瘍、または後天性免疫不全症候群の方が利用される病棟として開棟されました。
1992年に開棟し、翌年の1993年には厚生省(当時)から全国9番目の緩和ケア病棟(ビハーラ病棟としては全国初)として認可を受けています。
融通念仏宗の僧侶である森田先生は、10年間、常勤のビハーラ僧として、仏教を背景としている緩和ケアの病棟で終末期の患者様と関われていました。また1年間、仙台での被災地支援をされてきました。
二日酔いを想像してみてください
緩和ケアの病棟におられた頃、様々な患者さん、ご家族、スタッフに出会われたことを話してくださいました。その中で僧侶は、訪れるご家族、患者さんからは「死の使者」のようなイメージを持たれていたようです。
緩和ケア病棟に関わる方の中には「なんで自分だけこんなことに」や「若かりし頃の自分との比較」「元気だった自分との比較」「他者との比較」「想い通りにならない苦しみ」など、とても一般論では片付けられないような感覚があったと森田先生は言われました。それぞれがみんな苦悩されている。しかし、森田先生は、「当人の気持ちを本当に理解していくことはできない。難しい」と語られました。
患者さんは、身体的な痛み・精神的な痛み(スピリチュアルペイン)を抱えておられるといいます。しかし、援助者はその痛みをどこまで本当にわかっているのか?と疑問を抱えておられました。ある時、知り合いにその疑問を相談した際に、あるたとえ話をしてくれたと話されました。
「二日酔いになった感覚ってわかりますか?」
二日酔いは、ドーンと重く、気持ち悪い感じ。ただ、それが3日目には終わるから二日酔い。ずっと続くわけじゃない。だから、耐えられる。
けど、患者さんはそれがずっと続きます。あの感覚が終わりなく続くと思うと⋯⋯。すぐに治るから耐えられますけど。それがずっと続くと思うとゾッとする。
また、二日酔いの時は、誰かに水とか薬とかを持ってきてもらって、手伝ってほしい時と、一人でゆっくり眠って、誰にも寄ってきてほしくない時の2つの感情が入り混じるといいます。ビハーラ僧として、森田先生は「よってきてほしい時」にたよれるような存在になることを肝に命じておられたそうです。
しかし一方で厳しい言い方をすれば、「所詮は他人事」でもある。病の半分をこっちがもらって軽減するってことはできない。相手から見れば、私はきっと健康で元気な人に映る。そこで、開き直るのではなく、他人事だけど、我がごとのように関わらせてもらうのが役割だと言われました。
誰目線で老いを語るのか?自分のことを棚上げしていませんか?
病院では死を見せないように、亡くなられた方は裏口から出て行ってもらうことが多くなっています。霊安室も裏の方に作られていたり、地下に作られていることも多いそうです。
死・老いとは人として必ずくるはずのもの、「生」と隣り合わせのものであるはずが、現在は別物として扱われています。死を覆い隠そうとしているのが現代の社会です。
森田先生は、死や老いを遠ざける社会と、今回の「常識のカベ」というテーマを考えこんなことを提起くださいました。
1つは、一体誰が「老い」を考えているのか?誰目線なのか?ということです。
「老いの価値」といっても、ご高齢に限ることではない。みんな老いていってるのではないですか?そうなるとイコール、「自分の価値を考えているのかな?」という質問にも置き換えられます。
老いのことを話す時に、若い人老いている人に限らず、自分のことを棚上げ状態で考えていることが多い気がします
アンチ エイジング=死ぬこと!?
アメリカはアンチエイジングということがしきりに叫ばれています。人の価値というのは、常に生産的でなくてはならず、反老化のスタンスをずっととっている。
そんな中で、朝日新聞DIGITAL 2017年の記事に「アンチエイジング もう使わない米女性誌が宣言」という記事がありました。米国の女性誌『allureアルーア』が「アンチエイジング(老化防止)という言葉はもう使わない」と宣言しました。年を重ねることに否定的なアメリカ社会において一石を投じるようなこととなったようです。
最近では、アンチエイジングではなく、「スマートエイジング」といった言葉も出てきており、老いを捉え直す動きが少しずつ広まりを見せているようです。
私は老いることを、『歳を重ねること』と考えています。歳を重ねることは、経年変化・劣化・酒の熟成とか色々ありますけど。経験値から教わることは多いと思います。特に、職人の世界。棟梁とか。
2つ目は、常識のカベとはそもそも一体なんなのか?
カベっていうものに妨げられている?市場価値に翻弄されている自分がいるということを忘れてはならない。社会がそうだけではなく、そもそも自分自身がそうではないか。それを忘れずに、自分のあり方を問うていかなくてはならない。
ターミナル/終末期にいらっしゃる方は一生懸命に生きるとか死ぬを考えておられる。真剣です。
いのちの終わりを見つめられている傾向がある。歳を重ねていくことを、自分が生きていくことをどう考えておられるか、みなさん真剣でした。
しかし、多くの一般の方は「まさか自分のいのち、今日が最後ではない!明日もある。」と思っています。「じゃあいつなの?」と聞いても、そんなに深く考えていないから答えられないことも多いです。それはつまるところ、自分のいのちについて我がごととして考えていないのではないしょうか?
森田先生より、ドキッとさせられるような質問をされ、約40分ほどの講義が終わりました。日常生活の中で、どれだけの人が老いや死を「自分ごと」として考えているか、議論できているかを考え直すような講義でした。社会的には、一般的には「老い」とは、〇〇である、とどこか自分のことは棚上げ状態で、介護や医療の話が進んでいることもありそうです。後半では、参加者同士でのディスカッションを行いました。
消費者体質になっていませんか?我慢すること忘れていませんか?今後の介護への不安
参加者の僧侶から、こんなご意見が⋯⋯。
「僕自身がいい年の取り方をしたいと思っています。浄土真宗僧侶である故・梯實円和上(浄土真宗本願寺派僧侶)がかつて念仏者について『人は一生育ちざかり』と言われていました。愚かさを知りながらも死ぬまで成熟していけるようになりたいと思っています。
しかし一方で、消費者体質の人が増えてきていると聞きます。サービスをしてもらって当たり前、そこからクレーマーになって、介護の現場でもそういったことが増えることを懸念しています。そうなると、寄り添うことができなくなるのでは⋯⋯と。
だから、良い老に向かうための、事前の準備や教育といっていいかはわかりませんが、人間的な成熟を目指していくような、教育や啓発が事前に必要では?とも思いました。」
森田先生:「病棟で大声を出される方もいました。そこには、悲しみ恐怖が入り混じっています。ただ、その方はその表現しかできないんですよね。その方『静かにしてください』や『悟りの境地になりましょう』とかは無理な話です。
それがその人の独自のあり方なんだなぁっていうのをまずは、認めていく必要はある。
かといって、そういう方が増えると、本当に快眠したい方ができなくなりますね。
やはり、みんな他人事にしすぎなことが多いです。自分事として考えてみましょう!がすごく抜け落ちています。おこっていることは他人事。けど、自分に実際に被害が被ったら、自分すごく大変なんです!ってなる。
最近よく聞くようになった言葉を一つ例に出します。
「承認欲求」がすごく強くなっている。自分を認めてもらいたい、自分がこういう状態ですよっていうのをしっかり把握してほしい。それがクレーマーにも繋がっていく気がする。
私がここにいる!けが人!老人として認知しなさい!がとても強いですね。」
消費者体質について、スタッフの菱川さんはこんなことを⋯⋯
「終末期医療や介護をどちらもサービスで考えると、一般的に求められているサービスは不要というか、不要になるべきじゃないか?いらないものとして議論したい、と話されました。
実は本来、不要なサービスがすごく多くなっているのでは?不要なものを必要に思わせている。受けて当たり前ではかえって、欲が深まる。雪だるま式に増えていくのではないか?というご意見を言われました。」
病院での介護と自宅での介護の違いは?
「援助者と援助職は違いがあると思います。職業として生業として、対価が出ている。それは綺麗事ではなく、はっきりしています。」
前半よりパンチの効いたご意見をくださる森田先生、ある時看護・医学生にも一言⋯⋯
「人が苦しんでいるのを飯の種にしているわけですよ。元気な人ばかりだと生業として成立していない。その人たちが君たちの飯になっているんだ!」
それ聞いて、みんなキョトンでした。と笑ってお話しくださいました。
「介護をする」という行為だけ見ると、介護職・看護師・家族も似ている立場かと思いましたが、
職業としての援助職と家族が介護する援助者は全く違ったものだと気付かされました。
「家族」という枠組み。社会が作りあげた常識なのでは?
森田先生は、病院勤務時代に多くのご家族をみてこられました。そんな中、家族というものの捉え方にも大きな違和感を感じていたと言われます。
「病棟で会う方には、家族がおられない方もいました。当然、お見舞いにどなたもいらっしゃらない。亡くなって、無縁墓に入られる方もいらっしゃる。
けど、それが良いとか悪いとかではないんです。その人がそのように生きてきたんだ、と認識しています。
厳しく聞こえるかもしれません。けど、それはその方の『家族』というものがある。ただそれだけなんです。
私たち援助職が家族の何かの役割を担うこともできない。我々の描いている家族像に近づけようとするのは、越権行為かもしれない。なんてことを、スタッフで議論したことがありました。
私たちの大切にしないといけないことは、その方の蒔いた種をしっかりと見つめていくことでした。
だからといってその方をほったらかしにするのではなく、寂しいってことを感じるあなたがここにいることを、私は感じる。一人のスタッフとして、一人の僧侶として関わることしかできないと思っています。」
まちづくりに携わられる菱川さんは、こんなことも。
「まちづくりも似ています。まちづくりをする人はその土地に住む人で、なるようにしかならないんです。
樹木希林さんの『死ぬっていいわよ』という言葉を元に、老いることがネガティブに捉えられすぎている。それは森田先生の言われるように自分が蒔いた種であり、自分事が抜け落ちていて、自己責任なんだけれど、それを考えさせない社会の仕組みも問題ではないでしょうか?すぐにはできないと思うけど、どこかで軌道修正できないかと考え、100年後やあなたが死んだ後の世界のことを考えましょう!と言いたい。そこの部分は、宗教者、お寺、僧侶が応じることができると思っています。」
フランス人と日本人が捉える「老い」の違い
参加者の学生さんが、「若い人には老いのリアリティがないと言われる。まず、多くの若者がリアリティの持ち方もわからない。みなさんにとって、老いとは何か聞いてみたいです。まずは、老いとは◎◎である、と定義することから始めるのでは?」
フランスに長く住んでおられ、最近帰国された女性参加者は、日本とフランスの違いについて話してくださいました。
「フランスにいると老いを感じないですむ。日本だとひしひしと感じさせてもらえるんですよね(笑)。私は感じようと思っていないのに、日本だと周りから「おばあちゃん」と言われる。」
フランスでは、他人に向かって「おばちゃん」とは言わないそうです。また、フランスでのお仕事を辞められて、帰国後に自分も何かしたい!と思い、区役所に行き、自分が参画できるボランティア活動がないか?と聞いたら、『無理しないで』や『大丈夫ですよ』と言われて、地域の高齢者の集まりを紹介されたこともあったそうです。
年齢に関係なく、やりたいことを後押ししてくれる社会を望んでおられました。
また、興味深い話がもう一つ、日本でのインターナショナルの会やイベントに参加すると、日本人の主催者は嫌な顔をするけど参加者の外国人は受け入れてくれる、というようなご経験もあったようです。
地域によっても「老い」の定義は大きく異なってくるようです。一概に「老い」では片付けられない、文化・環境・歴史など様々なことが絡み合っているように思いました。
老いの価値について、参加者の僧侶は、
「老いの価値は、『育つこと』と思いました。とある教育産業の企業のキャッチコピーに「人は、一生育つ」というのがあります。成熟や、死ぬまで成長していけるようなものが老いの価値だと思います」
菱川さんは最後に、
「老いてる人は影響を与えないといけない。闇雲に挑戦して育つ年代や熟慮する年代とか、年齢によって色々他に影響を与えていけるはずです。
また、この会のテーマでもある常識のカベですが、「常識」の中には悪者にされている常識があります。常識には縛られないで、打ち破る方がいい!って思われている常識が社会にある。一方で、本当の常識は変わらないものであって、真理に近いものだと思います」
そう言葉を締められました。
「自己と他者の在り方にしずかな革命を」ーめまぐるしく変化を続ける現代社会において、それまで我々が当たり前としてきた「常識」を問い直し、これからの生き方を考えていく「常識のカベ」。
あなたの中の「常識」は、変わることのない、普遍的なものなのでしょうか?
次回は、前回(【イベントレポ】養うべきは「老人力」?2025年問題から学ぶ「老い」との付き合い方)に引き続き、龍谷大学大学院 実践真宗学研究科教授の中村陽子先生にお越しいただき、看護の業界から考える老いについてお届けします!
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