他力本願の意味とは?|「他力本願-阿弥陀さまにゆだねる- み教えの言葉を学ぶ」より

え/ひじ みえ

 
浄土真宗のみ教えを伝えるためのキーワード、「南無阿弥陀仏(名号本尊)」「摂取不捨」「他力本願」について本願寺派総合研究所の満井秀城副所長に解説していただいています。今号は「他力本願」です。
 

筆者
満井秀城(みつい しゅうじょう)
本願寺派総合研究所副所長。司教。

 

 

〝他力本位〞の意味で誤用 条件反射的に「本願」付ける

 
残念なことに、「他力本願」には相変わらず誤解や誤用が絶えません。私たちの伝道のあり方にも反省すべきところはあるでしょうが、「嘘でも定着すればまかり通る」という風潮には困ったものです。
誤用の形態は、二通りあるように思います。一つは「本願」を、意味もわからずに使っていることです。例えばプロ野球で、いったん点いた優勝マジックが消滅してしまい、ついには自力優勝の可能性までもがなくなってしまった時に、「あとは他力本願」というふうに使われます。あるいは政治家や知識人が、「他力本願では主体性がない」と言ったりもします。これらの誤用は、「もう自分の力ではどうしようもないので、あとは他人の力をあてにするしかない」といったところです。
この意味だとしたら、〝他力本位〞とでも言うべき内容です。ところが「他力」ときたら条件反射的に「本願」と言ってしまっているのです。それだけ「他力本願」が定着しているのでしょう。そう考えると、そのこと自体は悪いことではないのかも知れませんが、それでも誤用は困ります。「他力本願」は100パーセント仏教の専門用語ですから、マスコミも、政治家も、知識人も、専門用語として正確に使ってもらわねばなりません。
 

真実に突き動かされていく念仏者の生き方

 
誤用の二つ目は「他力」を、他人の力と考えていることです。そもそも「他力本願」の「他力」は、〝他力本位〞で使われているような、他人の力という意味ではありません。仏さまの力= 仏力のことです。
親鸞聖人の主著『教行信証』の「行文類」に「他力といふは如来の本願力なり」(註釈版聖典190㌻)とあり、これが「他力本願」です。私たちの依りどころを「仏力」と見定めるのですから、他人の力に頼るような、主体性のない生き方ではありません。むしろ真の主体性が、他力によって回復するのです。
私たちは、「真実」と名の付くものは何一つ持ち合わせていません。うそ、いつわりばかりの〝虚仮不実の生き方〞しかできない身です。そんな私たちの歩みに「真実性」が語り得るとすれば、それは阿弥陀さまから恵まれる「仏力」「他力」しかありません。
蓮如上人は、
 

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主に成るなり(同1309㌻)

 
と述べられており、自分自身の不実な思いを主とするのではなく、南無阿弥陀仏を主とした生き方を送るのが、念仏者です。
親鸞聖人も同様の意義を、
 

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て(同473㌻)

 
とお述べくださり、私たちの歩みにおける確かな立脚点を阿弥陀さまのご本願とする生き方として、お示しくださっています。
私たちは、本物に出会うと心が動かされます。美しい音楽や、見事な美術作品、まさしく「本物」に出会ったとき、大きな感動を覚えます。私たちが、仏力・他力という、真実のおはたらきに出遇あったとき、その真実によって突き動かされていくのです。それこそが、まさに「念仏者の生き方」そのものでしょう。阿弥陀さまの真実の智慧と慈悲に出遇ったとき、私たちの生き方が突き動かされてくるのです。そして、そこに、私の「主体性」なるものが成立します。私自身の不実な思いに基づく「主体性」でしたら、危うい歩みにしかなりませんが、「南無阿弥陀仏」が主となる「主体」ですから、私たちの確かな歩みが、そこから始まります。
 

仏教の「主体性」とは
 
「無我」の仏教には、「主体性」はなじまないのではないかとの危惧も予想されます。
曇鸞大師は、天親菩薩の書かれた『浄土論』冒頭の「世尊我一心」の「我」は、「無我法」に矛盾しないかとの問いをたて、「流布語(世間の日常語)」(註釈版聖典七祖篇52㌻)=としての「我」であると説明しています。言うまでもなく、私たちは、永遠不変の「我」的存在ではありません。しかし、「私」は「あなた」ではなく、誰も「私」を代わってくれないという「私」は存在するでしょう。
それが、「流布語」としての「我」です。永遠不変の実体としての「我」ではなく、仮に和合した存在としての「我」です。その「仮和合」としての私の上に、遍満する仏性(あらゆるところに至り届く、仏としての本来的性質)として、はたらいてくださっている。それが、他力無我法における主体。「南無阿弥陀仏を主とした」生き方です。

 

自分では捨てられない自力 阿弥陀さまにすべてゆだねる

 
「他力」の説明には、先の「他力といふは如来の本願力なり」が最もよく用いられます。もちろん正しい説明文なのですが、強いて言えば、「他力」の「力」に重点を置いた解釈で、これだけだと浄土宗でも通用します。実はこれだけではなく、親鸞聖人は『教行信証』の「化身土文類」に、「本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり」(同395㌻)とも示されています。これは「他力」の「他」に重点を置いた解釈と言えます。「自力を離れる」ことは、「他力」の重要な内容です。
 
なぜ「自力を離れる」必要があるかというと、「他力」が真実で、「自力」は迷いだからです。そして、わずかでも自力が雑れば、他力でなくなります。一滴の墨汁が、澄んだ水を濁らせます。
 
では、この自力はどうすればなくせるのでしょうか。「自力を捨てる」と言っても、自力は自分では捨てられないのです。少し考えてみてください。自力に細心の注意を払い、自力が出てくるたびに自分で退治していくとしましょう。これを無限に続けていったとして、最後に残る自力(本願他力にまかせようとしない、自らの力をたよる思い)はどのように捨てるのでしょう。結局、〝捨てる自分〞が最後まで残るという迷路に入ります。この迷路の解決は、阿弥陀さまにゆだねるところに、自ずと自力が捨たるということです。阿弥陀さまにまかせる以外に、自力をなくす方法はありません。自力の延長線上に他力はないのです。(終)
 

   

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掲載日: 2021.08.26