農業×芸術×仏教〜昔の知恵に尋ねる今を生きるヒント〜第2回「悲しみが好き」

ご縁ラボ02—ご縁ラボとは

ご縁ラボ(70億人の井戸端会議)は、経済発展による物質的な充実に偏った豊かさとは異なる心豊かなあり方「自他共に心豊かに生きる」ことについて業種を超えて共に考え、行動するコミュニティです。浄土真宗本願寺派の僧侶がホストとなり様々なテーマに精通したゲストを招き会場の参加者とともに対話の時間を設けます。今回は「農業、芸術、仏教」をテーマとした前年秋に開催した会について、その様子をそのままに、お伝えできればと思います。

 

<目次>

第1回 導入・ゲストとホストの紹介

前回の記事【https://tarikihongwan.net/goen_labo/8909.html

第2回 悲しみが好き

第3回 社会に反して

第4回 敵と味方その1

第5回 敵と味方その2

第6回 あいまいな対話・最後に一言

 

司会:今回の会は「曼荼羅トーク」という方法で会を進めて参ります。曼荼羅トークとは、ウェブマガジンgreenz(http://greenz.jp)の元編集長の兼松佳宏さんが、編み出された「沢山の言葉とであいのお土産」があるという魅力的な手法です。

少し簡単に説明させていただくと、最初に登壇者の方々にキーワードを数個出していただき、参加者の方々に聞きたいキーワードをその中からまず1つ選んでいただきます。また、選んでいただいた参加者の方々には、なぜそのテーマを選ばれたのか少しお話を伺い、それから、登壇者の方々にキーワードを中心にお話を伺っていく。という様な流れで進んで参ります。では気になるものがある方から挙手いただいて、その理由を聞かせていただければと思います。

 

ご縁ラボ02-1

菱川氏、丘山所長が出してくださったテーマ

 

参加者:「悲しみがすき」ってお話が聞きたいです。僕は京都の本質は悲しみの共有だと思っているんです。

日本っていう国が成立する前から色々な人が海を超えてやってきたのだと思うんです。そこで、立場の違いとか乗り越えて、心通わして、過ごしてきたと思いたいんです。 だだ、その根本は「悲しみ」がそこにあったからだと思うんです。悲しみがあったからそういうことになったのかなぁって。悲しみがあるから優しくなれる。そういうものがあってほしいなぁっと思って。だから、「悲しみがすき」ってのが気になりました。

 

司会:ご質問ありがとうございます。丘山先生、では「悲しみが好き」についてお話し願えますか?

ご縁ラボ02-2

—悲しみがすき

丘山:ご質問、ありがとうございます。僕が東京にいる時に、京都って夕方になるとなんだか赤ちゃんが泣き出すって聞いたことがありました。なんだか京都に来たら少し分かる気がしていました。不思議だけれど。

これはよく言われることかもしれないけれど、芸術は悲劇とか苦悩からの方が、生まれやすいらしいですね。喜びからってこともあるんでしょうけれども。ただ、苦悩の果ての喜びとかは好きなんですね。苦悩して、苦悩して、向こうから光が差し込んでくるような。だから僕はあまり絵とか分からないんですけど、ロダンの絵が好きで、暗いけど、向こうから光が射してくる様な。それとかドストエフスキーとかが好きです。なんでかというと、あんな暗いテーマの中で、最後に向こうから光が差し込んでくる。そういう在り方を一言で、存在、生きていることの悲しみっていうのが僕は適切かと思うんです。それ以上にうまい言葉ってないような。

僕のモットーとしては、楽しかったこと、苦しかったこと、悲しいこと、苦悩したこと、そこをひっくるめて、生きていてよかったなぁって死ぬ時に思えたらいいなと思っています。だから僕は、悲しみはいやだとは全然思わないんです。くやし涙とかは嫌いだけど、じわじわっとくるような悲しみは、僕は好きかな。

 

—慈悲とは

参加者:質問いいですか。よく仏教の世界では「慈悲」っていう言葉、仏さまが人々のことを救おうというイメージだとか、仏教的には慈悲深いとか優しいとかいうイメージありますけど、そういう時に、「慈しみ」ってところは理解しやすいですけど、なぜその後に「悲しみ」っていうのが入っているんですか。

 

丘山:ありがとう。そうですね、仏教で慈悲っていいますけど、キリスト教でいうと神様は「慈」だけだと思います。愛、慈しみ。インドのサンスクリットという言語でいっても「慈」はマイトリー。元々はミトラという言葉が語源になっていて、ミトラは友人が困っている時に、手を差し伸べる。何か役に立つって感じなんですよね。でも「悲」っておもしろくて何かやってあげることではなくて、見て、悲しむわけなんです。仏さまの慈悲って元々、「慈」と「悲」なんですけど、まず僕らを悲しんでくれるっていう。僕らの苦しんでいる様子に、止むに止まれぬこの仏さまの悲しみがある。だからこそ仏さまは慈しみの手を差し伸べてくれるっていう。だから「慈悲」って感じかな。仏教とキリスト教の大きな違いは、仏様と神様の違いはそこにもあるのかなぁって気がしますね。

 

菱川:よくわかります。共有ですよね。悲しみっていうのに寄り添うっていうか。悲しみを一旦共有しているっていうか。「慈」だけだったらなんだか上下関係がある様な気がします。なんだか、施しのような。でもその前に「悲」の共有があるのかなってことをふと思いました。

 

丘山:菱川さん、悲しいときある?

 

菱川:毎日悲しいです。毎日悲しいけど、毎日感動しているんですよ。本当に些細なことに毎日感動して。1日があっという間に終わるので。

 

司会:菱川さんはどんなことに感動されるんですか。

 

菱川:色んなことに感動するんですけど、田畑に立つんですね。毎日、違う、同じ日がないことに感動するんですよ。自分の心も変わってくるし、あらゆることに、感動しっぱなしで。

 

丘山:僕と菱川さんって感動するところが少し違う気がする。菱川さんって小さい頃あまりコミュニケーションが得意でなくてっておっしゃっていたけれど、僕はあまりそういった経験がなくて。僕はあまりそういう感覚はなくて、僕は出会いが全て。

 

菱川:ぼくは、悲しみの後に感動がくるんですけど、自分ってなんて出来ることってものすごく少ないなぁっていうことで悲しくなるんですよ。田畑に立って。でも逆にそういう自分が十分にやれているっていうのに感動しているのが、今整理できました。

 

—悲しみの共有

参加者:いいですか。阪神大震災の後に生まれた「満月の夕(ゆうべ)」って歌がありまして。3.11の後にもこの歌が歌われていたりして。悲しみの中で歌ったり、踊ったりする。人間の根源的な喜びみたいなものを共有することが歌われていて、歌うたびに元気になったりするわけなんです。いま先生がおっしゃった「共有」と言ったらいいか分からないんですけど、そういう歌もあります。

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菱川:悲しみは、本当に生きる源ですよね。

 

丘山:東北の震災の時に、酒屋の奥さんでご主人を失くされた方が、京都の恋文大賞で、亡くなったご主人へ綴ったものが一等賞になったんです。その方と話をしていたら、こうおっしゃるんです。「本当に皆さん、支えてくださいます。悲しさは消えません。でも悲しみのままに支えられている。すごく有り難い。」っておっしゃって。悲しみのままに人々に支えてもらえる。悲しみのままに阿弥陀さん、仏さんが背後から支えてくださっている、だから、悲しければ悲しみなさいって感じかな。でもその悲しみって大きな喜びに裏打ちされている気がして。安心して悲しめっていうそんなのが好きですね。

 

 

 

次回テーマは「社会に反して」です。どうぞお楽しみに。

 

2017.4/28更新

 

 

   

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掲載日: 2017.04.28

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