農業×芸術×仏教〜昔の知恵に尋ねる今を生きるヒント〜第4回「敵と味方その1」
ご縁ラボ(70億人の井戸端会議)は、経済発展による物質的な充実に偏った豊かさとは異なる心豊かなあり方「自他共に心豊かに生きる」ことについて業種を超えて共に考え、行動するコミュニティです。浄土真宗本願寺派の僧侶がホストとなり様々なテーマに精通したゲストを招き会場の参加者とともに対話の時間を設けます。今回は「農業、芸術、仏教」をテーマとした昨年秋に開催した会についてその様子をそのままにお伝えできればと思います。
<目次>
第1回 導入・ゲストとホストの紹介【https://tarikihongwan.net/goen_labo/8909.html】
第2回 悲しみが好き【https://tarikihongwan.net/goen_labo/8962.html】
第3回 社会に反して【https://tarikihongwan.net/?p=8982】
第4回 敵と味方その1
第5回 敵と味方その2
第6回 あいまいな対話・最後に一言
会の進め方
今回の会は「曼荼羅トーク」というやり方で会を進めて参ります。曼荼羅トークとは、ウェブマガジンgreenz(http://greenz.jp)の元編集長の兼松佳宏さんが、編み出された「沢山の言葉とであいのお土産」があるという魅力的な手法です。
少し簡単に説明させていただくと、最初に登壇者の方々に各分野からのキーワードを数個出していただき、参加者の方々に聞きたいキーワードをその中からまず1つ選んでいただきます。また、選んでいただいた参加者の方々には、なぜそのテーマを選ばれたのか少しお話を伺い、それから、登壇者の方々にキーワードを中心にお話を伺っていく。という様な流れで進んで参ります。
菱川さん、丘山所長が出してくださったテーマ
—敵と味方
参加者:差別の話と若干関連してくる話だと思うんですけど、敵と味方についてお話をうかがいたいです。差別ってやっぱり敵と味方に分けることの様に思うんですけど、私は芸術大学にいて4年生の時に1年間通して稲作をしまして、少し農的暮らしを経験しました。その中で、お米を育てるとしたら、お米を育てる為の環境を私たちは作らなくてはいけなくて、自然の中ではもうちゃんと食物連鎖等自然の生態系のバランスが整っているのに、人間の都合からするとこれは害虫で、これが益虫でっていう差別があると思うんですね。でも私たちの世の中は、敵も味方もなくて、結局私たちのこころが決めていることだと思うんです。その自然界の中で、生きて行こうとする時に、自然界と矛盾していく部分とあると思うのですけど、そのあたりお二方、どのようにお考えかお聞きしたいと思います。
菱川:ありがとうございます。私、結局差別って、差別的な行動をするとか、差別があるとか思われるって言うのは、自分を卑下するということがあると思うんです。ものごとを見えてないと思うんですよね。
例えば、自然農でいうと、害虫がいて稲を食べたりするんですね。お米の汁をすったりして、そのお米がダメになったりする。でも、よくよくみると、あれは、弱い稲が先にやられるんです。それは実はそこから蔓延する病気とかを逆に救ってたりします。そこがやっぱり見えてなかったりします。逆に元気なお米が、汁をすわれることによってこれ科学的な分析がされているんですけど、ようするにそういうことによって今度はウィルスに耐性がつくことによってしっかりしたお米が育つんですよ。虫にそういう毒をいれられることによって強くなると。それで、結局、いもち病だったり、カメムシの病気とかが一般的な農業が行われている田んぼだと全滅するんです。だけども自然農であれば、2、3%のお米はダメになるというよりも、土に還るだけで元気に育つんです。そうするとその虫は益虫なのか、害虫なのかって。その区別が本当はないはずなんです。でも、こんな話も実はほんのわずかのことで、人間は自然について知らないことがほとんどなんです。
天候でいっても、お天気で晴れがいいとか、雨が降ってほしいとか降らないでほしいということがありますよね。台風なんかは、いいと思う人はいなくて、悪者扱いで、台風のお陰で害を被ったと、いう農家が沢山いらっしゃいます。
そうではなくても今年は、8月は日照りが続いて9月は日照時間がすごく短くテレビで野菜が高くなったとかやっていたり。でも、よく考えると、毎日同じ最適な日照時間と最適な水量ってどう思いますか。人間は効率で考えると、それでよいと考えるんですね。毎日同じ様にするのが。
でもそうすると野菜が怠けるんですね。毎日同じ様に栄養がきて、雨が来る、自然の中ではよくよく田畑に立っていると晴れが続くと自分で冬眠するんです。夏でも。自分で身を縮めてはっぱをぐーっと縮めます。要するに光合成をしないようにするんですよ。雨降らなかったら。自分でエネルギーを使うと、下から栄養をもらえない時に、自分は乾燥しちゃダメだと、ということで葉っぱを縮めて雨を待つ、待つ時に、雨が降ってわかるんじゃなくて、雨が降るのが分かるんですよ。雨がふる前になったら、ばっと葉を広げて待つんですよ。これすごいんですよ。
丘山:本当に?見えるの?
菱川:見えるというか、分かるんですよ。僕たちが田畑に立っていたらそうするのが見えるんですよね。それだけ生きる力をつけなきゃいけないって思って、根も張る訳ですね。いまよく、台風でお米が倒れるというんですけどね、ぬくぬく育っていると、急な台風で倒れるんですよ。うちの稲は倒れないんです。というのも、いつ雨が降るか分からないから、根を20センチ、30センチ、40センチと伸ばして、地下の水分をとろうとするんです。
それで、一般的な農業が行われている田んぼの根はすごく短い。でも、自然農の根はとても長いんです。根が張ってるから倒れない。山もそうですよね。山崩れがおきていくっていうのも。人間が杉とか植林とかしているから。過保護にやっているから。そしたら、台風や、荒天、荒々しい天気っていうのは、害なのか、益なのかっていう、話です。
自然のしていることを理解はできなくても受け入れる。そうすると、敵味方みたいな差はなくて、虫も敵じゃない。そして、草もです。草があることによって、草が朽ちたら栄養になりますよね。ならなくても、それによって日照りを防げるんですね。その葉っぱの湿気をお米にも共有するので。
あれは全て周りが土だと全て干上がるんです。夜露を貯める効果も草はあるんですけど、土はすぐに吸い込んでしまう。だから日照りに弱いんです。だから、要するに一般的な農業が行われている田んぼだとすぐに水をやらなきゃならないとか、肥料もやったほうがいいってなると、どんどん弱くなってしまう。私たちはお米が欲しいって手を加えているんですけど、結局は手をかければ手をかけるほど生きる力の弱い稲となるので実は内容が乏しいんですよね。栄養的にも。沢山食べても病気になる。自然農は少し食べても十分栄養になる。で、過分に食べないで、腹7分目に押さえれば、要するにバイキング料理みたいに、いくら食べてもいいというようなことをしなければ、自然農でも十分に食糧を供給できるんじゃないかなと思っています。
丘山:菱川さん、「どこからどこまでが私なのかが分からない」って話をしてください。
その話を以前、聞いて嬉しかった。
菱川:そう、そこはすごく曖昧になってくるんですよ。出来ることも少ないし、それを分かる。で、さっきおっしゃったことすごく分かるんですけど、結局その自然界の中で、私の都合でそこにお米が欲しいと言って、ちょっとあらぬことをやっている訳なんですよね。だから自然任せの農法だって言うんですけど、やっぱり農をやる以上手をかけないといけないのはそういうところにあるんですよね。
でもさっき言っていた様に、農をやる時に、手をかけすぎてもろくなことがないです。在る程度任せるしかないんですけど。出来ることが少ないから任せることを知る。結局依存しなければならない、依存した方がいいっていう、依存することは素晴らしいっていうことになってくるんですよ。それで、ちょっと手を貸す。
それを考えると存分に生かされている中で、存分に生きることが出来ることが分かってきて、そういう依存の仕方、生かされ方、生かされているっていう自分がないと絶対自分に存分に生きられないと思うんです。自分が勝手に生きていると、人殺しもいいってなりますよね。そういうのは自由とは言わない。自由というのは、根っこがあって初めて自由になれる。それは自然のことわりであったり、仏教の教えだったりするなぁと思っています。自分は知識全くないんですけど、さっきいった、虫の問題、草の問題一つにも益虫害虫に別がないっていうのにもそこまで勉強しても、その先はもっと分かんないですよね。知っても、知っても自然界はもっと深くて、深淵で、それはあきらめた方がいいと思うんです。全て知るなんて。
だからそこは依存しなきゃならないってなると思うんですけど。そうすると本当に自分が楽になるっていうか、日々生きられるなぁっと。自然だから。最低限知っていなければならないのは、知るというか、身体におさえなきゃいけないことは、自然の理だと思っていて。それがもしかすると仏教の教えにつながるんじゃないかなと思っています。そこだけはぶれないで、体得しておく必要がある。それ以外はもう知らなくても、聞けばいい。
私の中でもう一ついうと、自分の身体も幾兆もの生き物で構成されているっていうんですね。だから自分の中を覗いても、自分じゃないとか、自分がいっぱいいるわけ、脳も調べたら今、右脳とか左脳とか感覚を司るという色んなのいいますけど、実はものすごい数の脳があるんですね。心の社会っていうそうなんです。「The Society of Mind」という論理で。要するに、いっぱいの脳が依存しあったりしながら自分を構成していて、もし一個の脳だったら、間違った方向にいったりするんですけど、いっぱい脳があるからそれがバランス良く、それはいいのか悪いのかという問いがあって、バランスが整っていって、問いがなかったら、悩みがなかったら、悲しみがなかったら、多分人間はとんでもない方向にいく気がしていて。
質問者:どこからどこまでが自然で、どこからどこまでが自分かわからなくなるっていうのがまさに仏教的やな、と思いました。ありがとうございました。
次回のテーマは「敵と味方その2」(5/15更新予定)です。どうぞお楽しみに。
2017.5/12更新