「失言をした人にどう接したら良いか」【みんなの人生僧談】
今回の僧談は「失言」について。普段考えてもいなかったようなことまで発言してしまい、失敗をした人は少なくないのではないでしょうか。
私たちはなぜ失言をしてしまうのでしょう。またそうした失言を見たらどうするべきなのでしょうか。こうした問題を僧侶たちが考えます。
失言をしたことで、周囲からひどく批判されている政治家や芸能人を見て怖くなりました。とはいえ、言ってはいけないようなことがあるのもわかります。失言した人にどう接したらいいでしょうか。
失言は怖いよね。僕も経験があるよ。普段思ってもいなかったようなことや、思っていても口には出すまいと思っていたようなことが、つい出てしまう。それで、周囲からひどく批判されるんだ。
うーん、批判されて当然の発言というのはあると思います。でも、それを見て怖くなるっていうのはちょっとわかりませんね。
そうかな。自分がいつ失言をしてしまうかわからない以上、その状況をおそれる、というのはわかる気がする。
そうだね。言ってはいけないこと、してはいけないことというのは、誰もがある程度わかっているつもりだと思う。でもそれを言ってしまうときがあるし、してしまうときがある。
フォローや言い訳のつもりではないけれど、そのコミュニティや社会の中での自分の立ち位置に呑まれて、つい「言わされてしまう」ときはあるんじゃないかな。
その考え方は面白いね。そのひと個人が言っている、というよりも、そのコミュニティの空気がそのひとを追い込んで、つい言わせているということもありうるのか。
別にこれは政治家や芸能人に限ったことじゃなくて、僕たちの生きている社会全体で起きていることだと思うんだ。
たいていの人は何らかのコミュニティの中で生きていて、親であったり子どもであったり部下であったり上司であったり、さまざまな役割を負っている。その役割を全うしようとして、つい言ってしまう、ということは十分ありうると思うんだ。
なるほど。つながりの中で生きている以上、自分も「つい言わされてしまう」ことはありえるから、それを無条件で批判するような社会は怖い、と。
やだなぁ。社会や人間関係なんか全部捨てて、ひとりっきりで山か図書館に引きこもりたい。
それはそれで贅沢な生活だね。ただ、それだと、自分の中の問題には気づけないまま生きていくことになるんじゃないかな。
どういうことです?
うまく言えないけれど、僕たちはいつも心のどこかで言うべきではないような意見や感情を抱えながら生きているんだと思う。それこそ蛇や蠍のような恐ろしい心が、自分のどこかに潜んでいる。
失言というのは、それこそ言わされているという面もあるけど、同時にそんな自分でも気づいていなかった恐ろしい心がふと顔を出すときでもある。
周りに注意されてやっと気づくような問題なんだ。そんな心の存在を知らないまま放置するのと、気づいて向き合うのと、どっちがマシかな?
僕は、その選択肢なら気づく方がいいですね。虫の出る家に知らずに住むより、知っていて覚悟しながら暮らすほうがまだ納得できるし、暮らしやすい。
成功している人が、成果が出せない人に「役立たず」なんてひどいことを言ってしまうとき、その裏側には「自分がこんなにつらい思いをして頑張っているのに」という不満や嫉妬があるのかもしれない。
そのひとはそれを口に出してしまって、周囲から注意されて、ようやく自分の中の問題に気づく。じゃあ、そうした人を見たとき、僕たちはどんな態度をとるべきだろう。
注意して、「失言だったけど、これからお互い気をつけようね」って言ったあとに、その場を離れて慌てて自己点検じゃないかな。僕たちもいつやってしまうかわからないんだから。
ううむ、社会の中で生きていくのって大変だなぁ。
僧侶たちの議論はまだまだ続きますが、ひとまずここまで。
以上、みんなの人生僧談でした。何かのヒントになれば幸いです。
《本日の僧侶プロフィール》
田舎好き僧侶
大自然とスローライフをこよなく愛する僧侶。最近庭でバジルを育て始めたが、自分が虫は苦手なのではないかと疑い始めている。
サイバー僧侶
お寺生まれIT育ち。趣味が高じてIT業界に進むも、自らの使命に気づき僧侶の道に。最新機器への物欲が目下の悩み。
引きこもり僧侶
学校と図書館と部屋の往復だけで生きてきた引きこもり系。友達は少ないが平気で生きている。部屋の本棚がいっぱいで困っている。
「みんなの人生僧談」では、様々な経歴を持つ僧侶たちが、世の中のよくある悩みを勝手にテーマにして座談会形式で自由に話し合います。