お寺の跡継ぎが、クリエイティブな世界にあこがれて|本多隆朗さんインタビュー<前編>
僧職図鑑08―本多隆朗(ほんだたかお)―《前編》
今回は、僧侶としての活動と同時に、テレビ番組のプロデューサーとしてご活躍された本多隆朗さんにお話を聞きました。
本多隆朗さん プロフィール
1970年、毎日放送入社。毎日放送退職後、吉本興業テラサンプロジェクトプロデューサー。2000年よりラジオ放送「本多隆朗の京のあったか円かじり」のパーソナリティをつとめる。浄土真宗本願寺派(西本願寺)で蓮如上人※500回遠忌法要(1998年)をきっかけに、本願寺派関係の要職を歴任。週末はお寺でのお勤めを40年以上続けている。
※本願寺第八代宗主。本願寺中興の祖といわれる。
本多隆朗さんの生い立ち
― まずは生い立ちを教えてください。
昭和18年6月7日に大阪吹田市で生れました。第二次世界大戦の頃でした。昭和19年には父が戦死しました。母とそれから母方の祖父母に育てられました。兄弟は兄と二人です。
― 実家はお寺だったのですか?
お寺でした。父が亡くなっていたので、幼い頃からご門徒のお宅に毎月おうかがいして法務の手伝いをしました。
その後、私は母方の実家のお寺の後継ぎとして姓が本多になりました。ですから、小さい時からお寺の後継ぎという立場に決められていたのです。
― 幼い頃からお寺の手伝いをすることに抵抗はなかったですか?
抵抗はありましたね(笑) 詳しくいうと高校時代から嫌になりました。
「僧侶になりたくない」
― どういったところが嫌だったのでしょうか?
仏教の話を聞いても難しい。それにお経の意味が分からない。あとは、古い、暗いといったイメージです。お寺での法要にも積極的ではなかったように思います。
それに、僕らの時代は1960年代、70年代の安保闘争の時代でした。同世代は、戦争や貧困、更に平和に関心を持っていました。「父親は戦死したけれども、世の中よくなってないじゃないか」という思いがありました。世の中をよくしていくには、情報を公開していかなくてはならない。ところが当時の私にとってお寺は閉鎖的にうつりました。あくまで10代、20代のときの印象ですが。それで、情報の公開がなされる社会と、クリエイティブな世界に憧れました。
― 仏教の大学に行かれた後、テレビの業界に入られたのですか?
後継ぎという身分でしたので、親戚やご門徒の期待を背負って龍谷大学に入学。僧籍も取得しました。大学院の修士課程まで在籍しましたが、大学在籍中がちょうど大阪万博が開催されました。そのころ新聞社の人と出会い、私の興味はメディアの方へと傾いていきました。
心の中には「お寺をしないといけない」という葛藤が常にありました。それでも自分の夢を追いかけて放送局に入社。その後は、あっという間の25年でした。
テレビのプロデューサーとして
― 毎日放送に入社されたとのことですが、主な仕事内容をお聞かせください。
ワイドショーのプロデューサーとして勤務しました。4×3のテレビ画面にニュースや話題の人をどう配置させるか、いろいろと工夫を重ねました。また、ワイドショーということで、視聴者に早く広く情報を開示することを目指しました。
― テレビ業界でのお仕事で有名な方と知り合われたりしましたか?
放送業界では定期的に打ち上げがあるんです。私の番組では三ヶ月に一回、ワンクールが終わったらみんなで集まって食事会がありました。
すでに亡くなられましたが、個人的には、横山やすしさんや桂春蝶さん、林家小染さんとよく飲みに行きました。三人ともよくお酒を飲まれました。
― 放送業界の方はけっこうお酒を飲まれるのですか。
芸能界にはけっこうストレスがあるんです。タレントにはあいさつから台詞おぼえから、けっこう厳しく指導しました。毎週の視聴率も気になりますし、ストレスもたまります。結果的にタバコやお酒をのむ人が多いように思います。
― 芸能界で長く活躍するコツのようなものはありますか?
芸能界はあいさつに厳しい世界です。ジャニーズ系の少年隊、SMAP、TOKIO、彼らはあいさつを忘れません。あいさつはスターの条件かもしれませんね。
あと食事について、長く仕事ができる人はお腹が減っていても仕事を優先します。タレントはわがまま勝手では続かない。彼らは人の話もよく聞きます。「傾聴」みたいにね。長く人気を保ち続けている人は、やっぱり謙虚ですよ。
僧職図鑑08―本多隆朗(ほんだたかお)―《後編》