アメリカン・ドリームのその後で。本当に帰るべき場所ー清原ケリー幸夫ー

 
60年代のアメリカで、マイノリティとしての自分と向き合いながら過ごした少年時代。
 
やがて大人になった少年は、日本とアメリカというふたつの国で大きな成功を掴む。しかし、その成功の先にあったものとは。
 
多くの大切な人々からのメッセージを受け取って、仏の道に帰依することとなった清原ケリー幸夫さんの半生を訪ねる全3回のインタビュー記事、中編をお届けします。
 
アメリカン・ドリーム
 
ーー大学卒業後はどうされたんですか?
 
83年に大学を卒業しましたが、ちょうどその時期はアメリカの経済が不景気でした。一方日本の経済は上り調子だったので、日本語が話せることをアピールして仕事を探したのですが、見つかりませんでした。
 
なので、再来日することに決めたんです。東京の市ヶ谷にあった英会話教室で講師をすることになりました。日本文化を学ぶという名目のビザでの来日でしたが、週20時間以下であれば働くことが許可されていました。
 
ーー英会話講師の仕事はどのくらい続けられたんですか?
 
英会話講師の仕事は一年間です。非常に楽しかったのですが、結婚をきっかけに転職することになりました。22歳のときです。
 
ーー日本の方とご結婚されたんですか?
 
はい。うちの妻は東京生まれの日本人で、父親は三菱商事の部長さんでした。
 
結婚させていただきたいと思っています、と挨拶に伺うと「今はきちんとした仕事には就いていないんだよね?まずは就職しなさい、話はそれからだ」と言われました。
 
そこで翻訳の仕事を始めることにしました。
 
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ーーどのような翻訳を?
 
半導体技術に関する翻訳です。説明書などの翻訳も手がけました。
 
他には医療機器や車に関する翻訳もしました。フルタイムで一生懸命働くうちに24歳くらいのとき、最高月収が100万円を超えました。
 
その後、日本の企業が海外で株を売り始めたことで英語での営業報告書が必要とされるようになったので、そういった分野を専門的に仕事にしていきました。会社も設立して、一生懸命働きましたよ。
 
経済的に安定したところでお父さんにも結婚のお許しをいただき、25歳の誕生日が来る前に結婚しました。27歳になる前には息子も授かりました。
 
ーー展開がすごい…。このあとさらに展開が多いので、インタビュアーの方からまとめて図でご紹介いたします。
 
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怒涛の展開でした。リーマンショックの影響はやはり大きかったんでしょうか。
 
あはは。そうです。それでね、不動産ローンをベースにしている証券なんて誰も買いたくないって状態になってしまいました。本当に2.5億ドルの証券が売れていればパートナーとして億単位のボーナスが出るかも…ってところだったんですけどね。
 
でもおかげでオンラインでのマーケティングにも強くなりました。paypalにも関わったりしたので。
 
日本の消費者はオンラインをこういう風に考えていて、こういう行動をとるとか、こういう風に見せればこう反応するとか…そういったマーケティング戦略を立てて、いろんな交渉をしたりとか。そういう仕事の経験は十分に積むことができました。
 
Don’t forget to come home. 人生の往く先はどこか
 
ーーその時点で何歳くらいになられてたんですか?
 
50歳くらいですかね。
 
息子もアメリカの大学を卒業するころで、良い機会だと思って1ヵ月の休みをとってロスに帰りました。息子も一緒に。
 
家族とともに / 本人提供
家族とともに / 本人提供

そのとき、とても印象的な出来事があったんです。
 
ロスでの滞在最終日、うちのお父さんが僕のところへきて、僕をハグするんですね。そしてこう言いました。
 
” Don’t forget to come home. “
 
直訳すると「帰ることを忘れるな」っていう意味になりますが、どういう意図でお父さんがこんなことを言ったのか、僕はいまいちよくわかりませんでした。普段ハグなんかもする人じゃなかったから、余計にびっくりして。ただ、まぁたまにはロスにも帰っておいで…くらいのことかなと思っていました。
 
その後、日本に戻ってからの僕はとても忙しくて、その出来事のことは忘れていました。中国電通に行くことが決まり、妻と一緒に北京へ引っ越しました。汐留の電通本社で社長と交渉して4億円の資金をもらって5年で目標の規模の会社にすることを約束して動き始めたところで。
 
そんな、新しい環境で忙しく働いていたある日、朝の3時に家の電話が鳴りました。
 
父が亡くなったという連絡でした。
 
父が言っていた “Don’t forget to come home.” という言葉を思い出しながら、父は自分の死を予期していたのだろうか…と不思議な気持ちになりました。しかし、当時の僕がとても忙しくて、父のお葬式には出ましたが、ゆっくり滞在はできずに、すぐに北京へ戻ってしまいました。
 
周りの人たちにとても慕われていた父 / 本人提供
 周りの人たちにとても慕われていた父 / 本人提供 

ーー身近な人の死に触れられたんですね。
 
はい。さらに、その後会社の健康診断を夫婦で受けた際に、僕には何の問題もなかったのですが、妻の方に問題が見つかりました。
 
彼女はステージ4の癌だったのです。すぐに手術をして、幸いにも手術は成功しましたが。
 
ーーそうだったんですね。それは忙しい日々のなかで、ということですよね。
 
中国での様子 / 本人提供
 中国での様子 / 本人提供

 
はい。会社が立ち上がったばかりのころで、新規営業に走り回っていました。
 
妻の病気が落ち着いたかなというころ、ボスたちから中国進出をさらに進めたいとの打診があって、上海でまた新しい代理店をつくることになりました。結局それも成功して新しいクライアントも獲得しました。僕は成功者だったと思います。中国電通のトップに僕を…という話まで出ていました。
 
しかし、事態は急に変わりました。ニューヨークの電通が買った代理店が、僕が育てた中国のオフィスを欲しがり、合併させることになってしまったんです。
 
つまり、乗っ取られたんですね。僕はもう必要ないということです。
 
53歳のときでした。中国電通のトップに就任するという話ももちろん立ち消えました。
 
ーー唐突なことですね…。電通を辞めてからどうされたんですか?
 
いろんな人に相談しましたが、再就職は難しいと皆に言われました。社長を務めたという経歴のことや、年齢的なこともあって採用してくれる会社は無いんじゃないかと。
 
それで、アメリカに帰ることにしました。ハワイに引っ越して、1歳の孫がいたのですが、彼女のお世話をしながら1年間ちょっとゆっくり考えようと思いました。
 
そして、ハワイの地で、僕はまた本願寺との縁を結ぶことになったのです。
 
孫とともに / 本人提供
 孫とともに / 本人提供

 
ーーハワイの日曜学校にまた通うことになったんですか?
 
はい。近所にあったモイリリ本願寺です。
 
そこのご住職がとても良い方で。
 
当時僕は自分のなかの大きな怒りの感情を持て余していました。広告業界が好きでした。もちろんストレスはすごくあったけど、大好きでした。一生懸命育てた会社も政治的な理由で取り上げられて、僕は怒っていました。
 
ご住職にも相談すると一緒に考えてくださって。なんで怒りが湧いてくるんだろうね、と。自分の都合の良いようにならなかったからかもしれないね。それを仏教ではDukkhaというのですよ。人生は苦であると。夢が破れてしまったことがいまのケリーの怒りの元なのかもしれませんねとお話くださいました。
 
だからといって、じゃあどうしたら良いかはわかりませんでした。ただ、当時の僕にとって、孫と遊んでいる時間と、それから本堂で阿弥陀さまの前にいるときが、一番安心するというか、しあわせな時間だということは感じていました。そのうち、このモイリリ本願寺でお手伝いをさせてもらうようになりました。
 
ーーお手伝い?
 
喚鐘とかです。
 
でも、僕は完璧主義で、喚鐘ひとつとってもなかなか納得できずに、イライラしながら練習していました。
 
そんなある日の朝、起きると枕元に孫がいました。孫はにこにこしながら、コンコンコンコンコンコンコーンって、僕がずっと練習していた喚鐘の真似をしていたのです。そして、何でもない風に、お腹が空いたから朝ごはん作って〜と言いました。
 
無邪気な孫の様子に、イライラしながら頑ななまでに完璧を求めようとしていた自分の姿を知らされたような気がしました。今でも、喚鐘をたたくと孫の顔が浮かんできます。
 
そんなこともあって、さまざまな縁に触れるなか、僕はやがて僧侶になろうと、もっとたくさん仏教の勉強をしたいと思うようになりました。
 
喚鐘と虹 / 本人提供
 喚鐘と虹 / 本人提供

 
ーーハワイでの日々やモイリリ本願寺の僧侶との出会い、お孫さんとのやりとりのなかで、そういうお気持ちになっていったんですね。
 
2016年7月、京都で得度を受けさせていただきました。
 
その後はモイリリ本願寺で僧侶として普段の法要のほか、ビハーラ[i]や病院、老人ホームへの訪問をするようになり、死と接する機会も増えてきました。
 
そういった経験を重ねるなかで、自然と、阿弥陀さまのおみのりを皆にもっと知ってもらいたいという気持ちが芽生えてきました。これにはひとつ印象的なきっかけがあるのです。
 
得度を受けた仲間たち / 本人提供
 得度を受けた仲間たち / 本人提供

 
ーーどのような?
 
叔父、うちのお父さんの一番下の弟が癌と診断されて、家でほとんど寝たきりで過ごしていたんです。ヘルパーさんは来てくださっていたのですが、薬を飲ませるには親類が同席していなければならないという決まりがあったので、僕がその役目を果たすことになりました。
 
あるとき、眠っている叔父が目を覚ましたかと思うと、急に起き上がって合掌するんです。そして「もういいです。もうこれで終わりにしましょう」とか「準備はできています」と言い出したんです。
 
なんのことかわかりませんでしたが、とにかく叔父と一緒に手を合わせて南無阿弥陀仏とお念仏しました。その後すぐに叔父はまた眠りにつきました。
 
そんなことがあった翌日、叔父は亡くなりました。
 
ーー叔父さんは篤信の人だったのですか?
 
いえ、普段の叔父は特に宗教的な人ではなかったように思います。
 
ただ、叔父が私に見せてくれた最期の姿には、そこから僕になにか学んでほしいというメッセージを感じました。
 
叔父に限らず、いろんな場面でいろんなメッセージを受け取るような経験を経て、僕は教師資格の取得や、開教使として生きていくことをイメージするようになったんです。僕に残されている時間で、ハワイのお寺の住職としてやっていきたい、そういう決心がついて中央仏教学院に入学することにしました。
 
ーーさまざまなお育てをいただいて、今この京都で学んでいらっしゃるんですね。
 
はい。周りは若い人ばかりですけど、すごく素晴らしい先生方に恵まれて、毎日新しいことを勉強できるんです。いま57歳なんですが、普通だったら定年が近いような年に、僕はこれからをとても楽しみにしている。すごいことだなぁって思います。
 
多くの経験のなかから湧き出た仏法を伝えたいというケリーさんの決意をお聞かせいただきました。次回は、実際に仏道を歩み始めたケリーさんが、今考えていらっしゃることについてお話いただきます。
 

 

[i] 仏教ホスピスのこと
 
2018.2/28 更新
 
掲載日: 2018.02.28