「聞く」ということ、と「聞こえる」ということ。

東日本大震災が発生してから丸8年が経過しようとしていた2019年3月8日、龍谷大学大宮本館で追悼法要が行われました。その際に、龍谷大学大学院実践真宗学研究科の実習助手である金澤豊さんの講話がありました。震災後8年に亘り、ボランティア僧侶として被災地での傾聴活動に取り組んでこられたことを話してくださいました。今回はその後半をお伝えします。前半の記事はこちらをご覧ください。
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「『聞く』ということが、相手に対して物理的に何かを与えているわけではないし、相手に影響を与えているわけではないかもしれません。あなたと全く同じ気持ちにはなれない、でもわかりたいんだという気持ちを持つこと。それが、聞くということの第一歩ではないでしょうか。その意味では、『聞く』という行為は受動的な行為のように思われるかもしれませんが、実は能動的な行為なのです。」
 そして、震災から2年経っても、5年、8年経っても、被災地では昨日のことのように震災当日の様子を教えてくださる方がたくさんいらっしゃいます。そして、多くの方から「不安である」という声が聞こえます。2020年に開催される東京オリンピックは、「復興オリンピック」などと呼ばれることもありますが、果たして本当に「復興」したのでしょうか。「復興とはなにか」 を問い続けることも、私たちができることではないかと、金澤さんは述べられました。 

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「聞く」ということの難しさ

 

蓮如上人*は、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」(『蓮如上人御一代聞書』)と申されました。

私たちは、この言葉をそのままいただいているわけです。疑うことなく受け取るということが大切でしょう。

ボランティア活動の中で、この「疑うことなく」というのが響きます。「聞く」という行為は、一見とても簡単な行為に見えます。しかし、相手が話す言葉の背景や、その言葉が発せられた気持ちをそのまま受け取る(=汲み取る)というのはとても難しいことではないでしょうか。あれだけニュースを見て、そして被災地の状況を目の当たりにしてもなお、被災者の気持ちをそのまま受け取るということは難しいことなのです。

(*蓮如上人…本願寺第8代宗主。御文章等による独創的な伝道を展開し、北陸を中心に東海・奥州に教線を拡めた)

 

また、児童文学の 金字塔であるミヒャエル・エンデ『モモ』にはこのように書かれています。

 

話を聞くなんて誰にだってできるじゃないか。しかしそれは間違いです。

本当に聞くことができる人は滅多にいないものです。

 

金澤さんが幼い頃、読まれていた本だそう です。聞くことの難しさを感じる中で、改めて読み返して見ますと、『モモ』がやっていたことがすごいことであると感じさせられます。 

 

そして、金子みすゞさんの「さびしいとき」という詩には

 

私がさびしいときに、ほとけさまはさいびしいの。

  

という記述があります。この詩を通して、私の気持ちをそのまま受け止めてくださる、阿弥陀さまの大きなお心に気づかせていただくのです。

 

本願をききて 疑ふこころなきを 聞といふなり(『一念多念証文』)

 

阿弥陀様のお救いが「聞こえる 」ことによって、私自身が苦悩を抱えた人の前に立って苦悩を聞くという活動がつづけられているものだと実感します。
 ボランティアという経験を通して気付かさせていただいたと、金澤さんは述べられました。

 

 

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「聞く」という行為は単に相手の話をふんふんと聞き流すという受動的な行為ではありません。相手の気持ちを分からないながらにも分かろうと体や耳を傾けて、相手の言葉 とその背景の気持ちを疑うことなく受け取るという、極めて能動的な行為であるというところに、大きな気づきがあるのではないでしょうか。そして、それは単に被災地の情報をニュースで得るだけでは、被災地のことは何も理解できないということを意味するのではないでしょうか。「被災地」の実情は実際に足を運んで、現地の方々に耳を傾けなければ何も分からないのです。

金澤さんも述べられていましたが、東日本大震災の発生から8年経ってもなお課題は山積しています。インフラや建物といった物理的な復興だけではなく、現地の方々に寄り添う、話を聞くといった心の復興についても考えなければならないのではないでしょうか。

 

 

前半記事「震災から8年、「被災地」の今はー。」

 

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<関連書籍>

『ボランティア僧侶日誌』

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