「老後の役割がなにもない」【みんなの人生僧談】
今回のテーマは「老後の役割」。役割がないこと、必要とされないことはつらいものです。
子育てやお仕事をいったん終えてようやく迎えた老後。やりたかったことや行きたかったところへの旅行を一通りしたあとに周りを見渡してみると、残っているのは誰からも求められない、何もやることがない日々。なんの役割もないままに残された人生を過ごすしかないのでしょうか。こうした問題を、僧侶たちはどう考えるのでしょうか?
ようやく仕事を引退しましたが、なにも役割がありません。
家事は妻に任せっぱなしで何もできませんし、孫の子守も任せてもらえません。
仕事に戻るわけにもいかず、かといって特に何か趣味があるわけでもなし。正直自分が世の中に不要な人間なのではないかとさえ思えてきます。私になにができるのでしょうか?
これは、他人事じゃないよね。家計を支えるために、どうしても仕事の優先度が高くなってしまう。これは仕方の無いことだ。だけど、引退すると、人生の大半をそそぎ込んだ仕事での役割も、それに基づく人間関係もなくなってしまうことがある。仕事に打ち込めば打ち込むほど、それがなくなったときは難しいよ。
仕事に打ち込んでいた分、他のことがおろそかになっていたことが響いてくるわけですね。家庭のためとはいえ、どこからも必要とされなくなってしまうというのはちょっと残酷なことじゃないですか?
地域とも、家庭とも、ほとんどつながりがないような状況からスタートせざるをえないのはつらいよ。しかも、仕事で成功した人であればあるほど、どうしても態度はどこかで上からのものになりがちだ。そうした態度が当たり前になってしまった人には、用事は頼みづらいしね。
上からの態度の人に頼み事をして、「俺にそんなことをさせるなんて!」みたいなことを言われるくらいなら、自分でなんとかしますよね。
この、つながりも役割も持てない状況が続くとつらいね。同年代の、同じ問題を抱えた方どうしでつながりを持つというのも難しそうだし。
良い案に思えるんですけど、何か問題があるんですね?
こうした人同士の場合、どうしても元の仕事の肩書きを持ちだして上下関係を作ろうとしてしまう人が結構いる。そうすると、上になった人は良いけど、下になった人は離れていく。結局その関係は続かないことが多いよ。
仕事を通じた上下のコミュニケーションしか知らないままだと、つきあい方の切り替えが難しくなる人が増えるんですね。
それに加えて、以前新しいことに挑戦できないという悩みもあったけど、今さら新しいことを始めるのもためらいがあるのかもしれない。あのときはいずれ必要になるときが来るから、それまで焦らなくても大丈夫、といったけど、この人はむしろ今がそのときなんだよ。
となると、新たな役割を得るためには、新しいチャレンジをして失敗を受け入れられる謙虚な自分になる必要がある、ということ?
それまでの自分を捨てて、新しい自分に変わるのは難しいんじゃないでしょうか。
うん、まあ、すぐにそうなるのは難しいだろうね。ただ不可能なわけじゃ無い。練習できる場所はあると思うよ。
何かプランがあるみたいな言い方だね。そのこころは?
ズバリ、お寺に通ってみることだ。お寺は「生老病死」という、誰もが直面する問題について語り合える、平等なコミュニティだ。共通の話題はきっと見つかるはず。不安だったら、それこそ最初は僧侶に相談してみてもいい。
ちょっと手前味噌な気もするけれど、悪くない案だね。死の問題の前にはどんな肩書きも役に立たないから、等身大の自分にならざるを得ない、という点もいい。肩書きを離れて、放り出されてしまった自分の人生や人間関係を考え直して、平等なコミュニケーションの練習をするには向いているかもしれない。
定年後はお寺が居場所になるということですね。人生の再出発の場所がお寺だなんて、ちょっとかっこいいじゃないですか。
僧侶たちの議論はまだまだ続きますが、ひとまずここまで。
以上、みんなの人生僧談でした。何かのヒントになれば幸いです。
《本日の僧侶プロフィール》
田舎好き僧侶
大自然とスローライフをこよなく愛する僧侶。将来は畑をいじって暮らしたいと夢見る。
家電僧侶
学生時代から6年間、家電量販店でアルバイトをしていた僧侶。家電業界と接客について理解がある。
サイバー僧侶
お寺生まれIT育ち。趣味が高じてIT業界に進むも、自らの使命に気づき僧侶の道に。最新機器への物欲が目下の悩み。
「みんなの人生僧談」では、様々な経歴を持つ僧侶たちが、世の中のよくある悩みを勝手にテーマにして座談会形式で自由に話し合います。