「お念仏をよろこぶ人の姿が僕の原風景です」仏教と向き合い続けた釈徹宗さんの生い立ち<前編>
仏教の良さは、頭を下げられる幸せにある
――釈さんは、仏教のどんなところがお好きですか?
釈:ずばり、簡単にはスッキリさせてくれないところですね。
仏教って、やってもやってもその奥があるでしょう?スッキリさせてくれるところがないわけではないけど、仏教は「わかった」と思った瞬間に否定されるシステムになっていて、常にひっくり返され続けます。提案と批判が繰り返されて、出家中心の仏教がうまれたら在家仏教が揺さぶりをかけてくる。空をとなえるグループが主流になれば、唯識や密教が生まれる。仏教自体がそういう歴史をたどっている面がありますが、常にひっくり返されながらそれでも奥へ奥へと深まっていく仏教は苦しい面もありますが好きですね。研究として取り組むのも、とても楽しいです。
住職として好きなのは、毎朝大学に出勤する前にご門徒のお宅にお参りすることです。朝から勤行するのはやっぱり気持ちがいいし、慣れ親しんだ人と話すのは楽しいですね。
朝、「南無阿弥陀仏」と称名するのはなんとも言えないよろこびがあります。お寺を出るたびに頭を下げる。ゴミ出しのときも頭を下げる。頭を下げないと家を出られないという意識があることを幸せに感じます。家を出るのが嫌なときも、頭を下げて出勤すると勇気をもらえますね。
同時に、今日はちょっとつらいな、と思うときでもちっぽけな悩みだなあと思うことができます。自分の小ささを感じ、自分を超えたものに包まれるところに安心があるような気がします。
――それは儀礼にも結び付けられるのでしょうか。大きな何かに委ねられる安心感が、儀礼の価値なのではないかと感じました。
釈:儀礼には、世俗とはちょっと違う時間と空間に身を置くことができる力がありますよね。それによって線引きができて、少し違う自分になることができます。
だから我々は、毎日の勤行によってリセットされているんですよね。
自分に流れている時間がゆっくりになる。日常生活では何をするにも刻々と追い立てられてイライラするけど、儀礼の間は時間が延びるような感覚になるんです。現代人は、時間を圧縮することばかり考えますよね。レジだってちょっと待つとイライラしてしまう。これは脳科学の先生に聞いたのですが、現代人は金魚以上に待つという行為が苦手らしいですよ(笑)。
だからこそ現代人は自分の中に流れている時間をいかに延ばすかということが至上命題だと思います。その中で宗教儀礼が時間を延ばしてくれるんじゃないか、そういう思いがありますね。
――時間を延ばすこと、時間をかけることは、すぐにイライラしてしまう現代の私たちにとって、実はとても大事なことなのかもしれませんね。
では、釈さんが浄土真宗で良かったと思うところはどこでしょうか?
釈:僕はもともと性格的に浄土真宗にフィットしていないように思っていたんです。禅宗のほうがあっていると思ったこともありました。でもやっぱり浄土真宗の情緒的な、ウェットなところをありがたいと思うようになってきたんですよね。
小林一茶という俳人が、「露の世は露の世ながらさりながら」という句を詠んでいます。一茶は浄土真宗の熱心な念仏者で、自分の娘が亡くなったときに、その句を詠んだそうです。もう会えないとか、どうしようもない状況なのはわかっていても「断ち切れない」人間の心。ここに寄り添えるのが浄土真宗の良さだと思っています。
仏教はもともとクールな宗教で、そういう部分は結構切り離されてきた歴史がある中で、そこに寄り添う浄土真宗は「良いな」と感じますね。
インタビューは後編に続きます。
後編では、葬儀の必要性や、僧侶に求められることをお聞きしました。
釈徹宗さんに聞く、日本仏教のこれから|釈徹宗さんインタビュー<後編>