合掌・礼拝にはどのような意味が?【仏事の疑問】
合掌・礼拝にはどのような意味が?
(『せいてん質問箱』より)
合掌・礼拝にはどのような意味があるのでしょうか。
合掌と私たちの社会
かつて小学校では、合掌(がっしょう)し、「いただきます」と大きな声で言ってから、給食をいただいていました。このことからわかるように、合掌は仏教・浄土真宗の中だけでなく、日本の文化・生活の中に広く浸透していました。また、世界に眼を転じても、仏教以外の諸宗教に合掌あるいは合掌に似た礼拝(らいはい)の形を見ることができます。このように合掌が文化の違いを超え、また宗教内だけにとどまらず広く受容されてきたのは、この行為に普遍的な意味が感じられたからではないでしょうか。
挨拶としての合掌・礼拝
インドでは、仏教興起(こうき)以前から、合掌が挨拶(あいさつ)として行われていました。現在も「ナマス・テー」と声をかけ、合掌し礼拝する挨拶が行われています。この「ナマス」は「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」の「南無」に相当し、お辞儀することを意味しています。「テー」は〈あなたに〉の意味です。
このように、インドの挨拶の中に、合掌・念仏・礼拝の原型を全て見ることができます。しかし、形は同じでもその意味まで同じというわけではありません。まずは、仏教における礼拝の意味を見てみましょう。
礼拝の形
龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)作とされる『大智度論(だいちどろん)』は、礼拝を三種類に分類します。一は立ったままの略式の礼で「揖(ゆう)」と言われます。現在、焼香(しょうこう)前に行われている一礼が、これに近いものと推定されます。二は膝を屈し、頭を地に着けない礼拝で「脆(き)」と言われます。
「脆」の字は、かかとを立ててひざまづく姿を意味しており、長脆(じょうき)・胡脆(こき)がこれに含まれます。三は「稽首(けいしゅ)」です。相手の足に額を着けて行われるもので、これが最も丁重な礼拝とされます。五体投地(ごたいとうじ)はこの中に分類されます。
法蔵菩薩の礼拝
次に、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の礼拝の記述を見てみましょう。
法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が師の世自在王仏(せじざいおうぶつ)をほめ讃えようとする姿が、以下のように描かれています。
法蔵菩薩は、まず、先の三分類中の稽首を行い、続いて右饒三帀(うにょうさんぞう)しています。この右饒三帀も礼拝の一形式であり、右肩を内側に向け三周するというものです。この時、通常は右肩から衣をはずし、右の肩を露(あら)わにして敬意を示します。以上のような丁寧な礼拝を行った上で、法蔵菩薩は両膝を地につけ合掌し、「讃仏傷(さぶつげ)」を以て仏を讃歎するのです。
礼拝の意味
西国から中国にやって来た勒那三蔵(ろくなさんぞう)は、礼拝の仕方を中国人に教示します。その中で彼は、二つの悪い礼拝の仕方を説いています。―つは高慢な心のままの礼拝です。この礼拝では、自らをたのむ心が強く、謙虚さを欠き、教えを聞く態勢になれないと指摘します。第二に、心が伴っていない礼拝です。口では讃歎し体でも敬意を示すが、心が散漫なままで相手に向けられていないと説明されます。
この礼拝に関する教示から二つのことがわかります。―つは、つつしみの心を持ち、相手に思いを注ぎ、更には教えを聞き受ける態勢となることが礼拝の意味であるということです。もう一点は、礼拝は身体的な行為ですが、行為の碁本になっている心のあり方こそが、礼拝する上で重要であるということです。
合掌の形と意味
続いて、合掌に関する説明を見てみましょう。唐代に編纂(へんさん)された『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』は、合掌について敬意を表すと同時に、乱れやすい心を制御する行為であると説明します。また、合掌する時に、両掌(りょうて)の間に隙間(すきま)ができたり、指が揃(そろ)っていないのは、心のゆるみを示すとも説かれます。
次に、善無畏(ぜんむい)三蔵『大日経疏(だいにちきょうしょ)』では、合掌を十二種に分類しますが、この中、最も基本的な形となるのが、両掌をきちんと合せる堅実心(けんじつしん)合掌です。この形は、心が一つになっていることを示しているとされます。更に、元照律師(がんじょうりつし)『四分律行事紗資持記(しぶんりつぎょうじしょうしじき)』には「合掌は心想(しんそう)定まるなり」と説かれています。
これらは全て、同じことを指摘していると言えます。即ち、基本的な合掌の形は、心を対象に向け集中し、一心になったことを表しているということです。
礼拝と帰命
曇鸞大師(どんらんだいし)は、『往生論註(おうじょうろんちゅう)』で「帰命(きみょう)は礼拝である。しかし、礼拝は恭敬(くぎょう)に過ぎず、帰命であるとは限らない」(七祖五二頁、取意)と帰命と礼拝の違いを示し、「帰命」が礼拝に比べて、強く重い意味を持っていると説かれました。
「帰命」は、「ナマス」(南無)の訳語であり、原語は挨拶時の言葉と同じものです。しかし、訳語である「帰命」の文字通りの意味は〈命に帰する〉です。真宗では、本願に帰(き)せよとの阿弥陀仏の仰せにしたがうことを意味しています。これが単なる敬いの意味でないことは明らかです。同じ言葉(かつ同じ行為)でありながら、仏教内において、信仰の内実を承け、意味が深化していったと言えるでしょう。
合掌と礼拝の意義
これまで、礼拝・合掌という一連の行為が、敬意を示すこと、つつしみの心を持つこと、相手に心を専注し一心になること、法を聞く態勢になることであることを確認してきました。
また、東アジア文化圏に住む私たちは、相手に見せるためのものと礼を考えがちですが、仏教における礼拝は、自分の心を整えていくということに、あくまでも重点があるということも確認しました。
私たちの日常を振り返れば、様々な事がらに心は千々(ちぢ)に乱れ続け、本当に大切なことを見失いがちです。そんな日常の中で、手を合せ礼拝し、心を整える時間があることは、どれほど私たちに豊かさを与えてくれることでしょう。
最後になりましたが、合掌はなぜ普遍的なのでしょう。それは合掌が、大切なものに触れた時、真宗で言えば阿弥陀如来の救いに出遇(であ)った時に思わず表れる姿だからではないでしょうか。私たちは、合掌・礼拝の姿となって表れた真宗の教えを喜ぶ心を、大切に継承していかねばなりません。
教学伝道研究センター常任研究員
(現 浄土真宗本願寺派総合研究所 副所長)
藤丸智雄
※写真はイメージです。