「他人が楽しそうだとイライラしてしまう」【みんなの人生僧談】
今回のテーマは「楽しそうな他人へのイライラ」。つらいとき、疲れているとき、何もかもがうまくいかないとき。人生には全てが疎ましくなるときが確かにあります。他人の楽しそうな声が聞こえるだけで、怒鳴りたくなってしまうような時間が。
そんなつらい時間を、僧侶はどうやって越えていくのでしょう?
今日のテーマ:他人が楽しそうだとイライラしてしまう
他人の楽しそうな声を聞くだけでイライラしてしまう。
私はこんなにも大変なのに。
先に自分のイライラがあって、他人の様子はきっかけなんでしょうね。そんな印象を受けます。
他人が楽しそうなときに、自分だけ疎外されていると感じるとイライラしてしまうことは多いよね。
僕も時々こんな風になることがあるよ。やることが山積みなのに、全く進まないときなんかにこうなりやすいね。うまく感情を整理できなくなって、他の人に当たってしまいそうになるんだ。
活躍している他人がいる時に自分に余裕がないと、自分が蚊帳の外におかれて、イライラもするよね。そういう意味では「自分に配慮して欲しい」っていう感情なんだろうけれど。
「私はこんなにも大変なのに」って言うからには、何かが上手くいっていない焦りもあるんでしょうね。
そうだろうね。そういうとき、それをバネにできるかどうかは人によってわかれるみたいだけれど、これはなんの差なんだろう。
やっぱり、一つは「どこかにその人の居場所があるかどうか」じゃないかな。大変さやつらいことを受け入れるには居場所が必要で、それがないと、つらい現実を受け入れるための心の余裕が持てない。譲れない状況では余裕なんか持っていられないからね。
居場所は大切だね。この世界の誰からも必要とされていないなんて思ったら、それは何もかもが疎ましくなる。
もう一つは、「自分が目標に向かって効果的な努力を出来ているかどうか」。目標が見えないまま、闇雲に努力しているときはつらい。自分が進めているかどうかすらもわからないときは、心に余裕なんて無くなってしまう。そうならないためにも、きちんと現実と向き合って、自分が今何をするべきなのかを見極めてから進むしかないんじゃないかな。
……居場所を得ることにも社会では努力と結果が求められてしまう。そうなると結局は現実に向き合って努力する、ということが求められていくんじゃないかな。
つらいことだけれど、そういう側面はあるだろうね。
大変な状況でもイライラしないで、それをバネにするためには余裕が必要で、そのためには現実に向き合って努力することが必要、と。そうなると今度はどうやって現実と向き合うか、というお話になりますね。
僕の場合は紙に書き出してみることが多いよ。今、自分が何をやっているか、目標はどんなことなのか、とにかく書いて、一度自分から問題を切り離してみるかな。手で作業をする、というのも落ち着く要素だし。
それは良い方法だね。追いこまれてしまっているときは、焦りで視野が狭くなってしまっている事も多い。少し時間をかけてでもそういう作業をして、落ち着いて考えるのが良いだろうね。他人に話を聞いてもらうのも良いかもしれない。
もし話を聞いてもらうのなら、「他人の楽しそうな声を聞くだけでイライラしてしまう」という感情面の話じゃなくて、「私はこんなにも大変なのに」と感じる、自分の抱えている問題の方に内容を絞って話を聞いてもらうのが良いですよね。
そうだね。感情を聞いてもらうことも大切だけど、この場合は問題を自分から切り離してみるのが目的だから、事実だけを聞いてもらうのが良いと思うよ。
それなら、お寺の本堂で仏さまに聞いていただくのが良いかもしれないね。悩んでいるときは煩悩に振り回されて混乱しているけれど、仏様の前だとそういった煩悩を乗り越えて、冷静な視点を貸していただけるような気がするよ。お寺は、あらゆる人のための居場所だ。余裕を取り戻して考えるのには一番向いていると思う。……どうしたの、変な顔して。
急にお坊さんみたいなこと言いますね。
お坊さんだよ、僕たち。
僧侶たちの議論はまだまだ続きますが、ひとまずここまで。
以上、僧侶の部屋での座談会でした。何かのヒントになれば幸いです。
《本日の僧侶プロフィール》
田舎好き僧侶
大自然とスローライフをこよなく愛する僧侶。将来は畑をいじって暮らしたいと夢見る。
サイバー僧侶
お寺生まれIT育ち。趣味が高じてIT業界に進むも、自らの使命に気づき僧侶の道に。最新機器への物欲が目下の悩み。
絵描き僧侶
小中高と美術部で過ごしてきたイラスト大好き僧侶。最近の推しは駆け出し舞台俳優。
「僧侶の部屋」では、様々な経歴を持つ僧侶たちが、世の中のよくある悩みを勝手にテーマにして座談会形式で自由に話し合います。