時代に応じた仏教のカタチを模索しながら|羽田高秀さんインタビュー<後編>
今回のインタビューのお相手は、「京都 坊主BAR」を経営されている羽田高秀さん。
《前編の続き》
▼「僧侶として、バーを経営する難しさ」、あるいはジレンマみたいなものはありませんか?
ありますね、常にあります。
僧侶としてという意味では、ほとんどここでは、浄土真宗の教えを直接的には話しません。まれに「浄土真宗はこういう教えです」とか、「他力とはこういう意味です」ということはありますが。ですから、果たして自分は「僧侶」かな?と自問自答することはあります。
▼「教えを語らない僧侶」は僧侶なのか、ということでしょうか。
たとえば、「一年前に亡くした妻を忘れられないんです」という方が目の前にいらっしゃる。そのときに、自分がどういう立場で接するかというと、特に悩むところです。
そういう方に、教えを一方的に語ってもあまり響かない。たとえば、そういう人には、「こういう本もあるんですよ」と、紹介したりします。しかし、それは浄土真宗の教えと関係ないものもあるわけです。その時、自分は「浄土真宗の僧侶」ではないわけです。
そういう矛盾を抱えています。矛盾も抱えているけれど、そういうあり方もかえって別の意味では、非常に僧侶的なのではないか、と思うこともあります。
▼僧侶として、坊主バーに立ちながら、目の前のお客さんとどういう時間をすごすか、この人にふさわしいものはなにかを考えて、こちらの伝えたいものは、いったん全部横において、接することを心がけていらっしゃるように聞こえました。
そういうふうに表現して頂くと、いちばんわかりやすいかも知れません。自分が出したいものはあまり出さない。カウンセリングで言えば、「ついて行く」という感じですかね。
▼坊主バーは、新しい仏教へのアプローチのように思います。坊主バーから見た、いまの「仏教の課題」とはなんでしょう。
いつの時代でもそれはあったんでしょうけれど、非常におおざっぱにいえば、昔の仏教「官の仏教」から、「民の仏教」の時代になっているのにも関わらず、いまの仏教のスタンスは「官の仏教」のままだと感じます。これからはお寺と一般の関係が変化してくと思います。
▼この「坊主バー」という形は、まさに「民の仏教」の形としてあらわされているように思いました。
こういう形で、仏教をひろめていくというのは「アリ」かな、と思っています。江戸時代からいままで、ずっと続いてきたものとは違った形で、こういうものもありではないかと。バーではなくても別の形でも、今の時代に応じたものが多分出てくるし、出てこないといけないのではないか、と思っています。
▼ 権威や固定化された形をいったん離れて、仏教に触れてもらいたいという思いが、この坊主バーという空間で目指されているんですね。
あと、できるだけ、一対一の人間と人間のコミュニケーションがそこであるということが大事かなと思います。
あるいは、親鸞聖人も仏教に限らず、いろいろな話をされたんではないかなと思ったりします。そして、そのなかで、その人に合う言葉で、自分が修行をし、学んできた仏教を語っておられたんではないかなと思います。この坊主バーも、それと同じような空間になればなぁと、思っています。
▼本日はありがとうございました。
京都 坊主BAR
Address: 〒604-8237 京都市中京区油小路通蛸薬師下る山田町526番地
Tel:075-252-3160
定休日:日曜日,木曜日(振り替える場合あります)
営業時間:20:00~24:00(ラストオーダー 23:30)