死刑台にまで連れて行かれた経験を持つ僧侶|佐藤アデマール清利さんインタビュー<前編>

浄土真宗のお坊さんは、日本だけでなくヨーロッパ、北米や南米にもいます。今回は、ブラジルの首都ブラジリアにある「ブラジリア本願寺」主管の佐藤アデマール清利さんにお話をお聞きしました。日系3世の佐藤さんはブラジルやチリで政治活動に参加された後、大学教授、政府高官などを経て、浄土真宗のお坊さんになられました。
 
仏教の入門講座において
仏教の入門講座において
 
 
ーー佐藤さんのお父さまは日系二世、つまりブラジルで生まれた方であるとお聞きしましたが、お母さまは日系一世、つまり日本からブラジルに渡られました。ご両親はどうやって出会われたのでしょう。
 
佐藤アデマール清利さん(以下:佐藤):ブラジル生まれの父は日系企業に勤務し、仕事の関係で日本に来ました。ところが当時日本は戦争中だったため、父は、日本に到着してすぐに日本の兵隊として、満州へ送られたようです。その後、親戚のいる福島県に戻り、まわりのすすめで1940年に母と結婚しました。ところがその1年後の1941年に夫婦そろってブラジルに帰国せざるを得なくなりました。そして、翌年私はブラジルで誕生しました。
 
ーーお母さまにとって母国から離されるのは大変なことだったのではないでしょうか。
 
佐藤:そうですね。しかも両親がブラジルにたどり着いたころ、日本とブラジルはちょうど戦争相手国の関係にありました。ブラジルについたとたん第二次世界大戦が始まり、敵国である日本からの移住者という扱いで父は警察につかまり、父が満州の日本陸軍に従事していた時代のアルバムが見つかり、スパイと判定されました。母はブラジルに到着して、すぐに夫と離れ離れになったのです。その後2、3年は会えませんでした。
 
母はポルトガル語が話せませんでした。私はそんな母に育てられたので、8歳まではずっと日本語で話していました。その後、地元の学校に通うようになってポルトガル語を学びました。
 
しかし私が15歳になるまで、母は一日3時間、日本語を私に教えてくれました。サムライの小説など、たくさんの日本語図書を読みました。孫悟空の話を覚えています。貧しい人や抑圧された人のために騒動を巻き起こす孫悟空が、どれだけ暴れても、仏さまの手のひらから外に出ることができなかったことが大変印象的でした。戦後日本の荒廃を生き、大いに成功した手塚治虫の漫画でした。
 
ーーブラジルでは敵国の日本人であることに苦労はなかったですか。
 
佐藤:近所の子供たちは私に「アリガトウ、ニホンニカエレ!」と言って、石を投げつけました。「アリガトウ」とは日系人がよく使っていた言葉を真似ただけで、特に意味はなく、日系人を表すのに用いられた言葉です。今思えば戦争中そして戦後、ブラジルの日系人は大変な苦労をしてきました。
 
けれども日系人は、辛かった過去の話をあまりしません。ブラジルに対する憎しみよりも、戦後ブラジルに受け入れられたという意識の方が強いからだと思います。浄土真宗を信仰する大部分の日本人移民の精神から、この寛容さがもたらされたのかもしれません。
 
ご家族のみなさま ご家族のみなさま
 
 
ーー佐藤さんの子供の頃の生活を教えてください。
 
佐藤:子供の頃は、キリスト教のプロテスタントの日曜学校に通い、その頃、洗礼も受けました。18歳の時(1960年)にサンパウロ大学に入学し、大学ではカトリック系の学生運動に参加しました。労働者を保護する左翼的な運動です。
 
1964年、民主政権が崩壊しブラジルは軍部政権になりました。当時、私はサンパウロ大学に助手として勤務していて、授業も担当し、ブラジル社会は平等の分配を目指すべきだという政治的立場を貫いていました。ところが、軍事政権に変わり、私の同僚や教え子が逮捕され、刑務所を訪問したりしていると、「にらまれているぞ。すぐとらわれるぞ」と周囲の方から警告され、ブラジルから出ることを決意しました。そして1970年1月にチリに入国し、国連に勤務し始めました。
 
お坊さんになる前の労働党での集会演説
お坊さんになる前の労働党での集会演説
 
 
ーー母国での政治活動をきっかけにチリに渡られたのですね。
 
佐藤:チリに入国した頃の政治界では暴力を嫌い、民主主義によって社会を作ろうとする党派が勝利していました。そんなチリの国状を見ながら、「自分もチリの民主化に参加したい」という思いが起こりました。そこで国連を辞めて、社会党の活動に参加し、アジェンデ大統領と同じ派内で仕事を始めました。
 
ところが、1973年9月に軍部による革命が起こったのです。私はクーデターの2日後に、軍部に拘束され、死刑台に連れて行かれました。私の後ろには機関銃を構えた兵士がいました。
 
軍部の人間は私を見て、中国から来た「重要人物」と思ったようです。そこで、軍部の上(将軍)の人が私を尋問しにやって来ました。私は、ブラジルから来た日系人だと言いました。ところが、自分が社会党派の関係者であることを知られると、命がどうなるかわかりません。そこで私は、「国連の人間だ」と嘘というより、開き直りました。懸命でした。嘘も方便とはこのことでしょうか。そして、妻から「念のために」と渡されてたまたまカバンに入っていた国連のIDカードを見せたのです。すると将軍は、「疑って悪かった」と言って私を解放したのでした。31歳の私はすでに結婚していて、3歳の息子と2歳の娘がチリで生まれていました。
 
ーーその後もチリに滞在されたのでしょうか。
 
佐藤:その後は家族と一緒にチリから逃れ、ブラジルへ戻りました。しかし軍事政権による抑圧が非常に強いサンパウロにはとどまることができず、准教授として講義を受け持っていたサンパウロ大学へ戻ることもできませんでした。友人達の助けによってブラジル北東部のバイーアに1974年から1980年まで住みました。この友人達が保護する力を失うと、私は軍事政権に捕まりました。長い期間ではありませんでしたが、息子たちとはこの期間引き離されてしまいました。その後8歳になろうとしていた息子を突然の病で失いました。
 
1980年にサンパウロにようやく戻ることができました。1964年に始まった軍事政権が弱体化してきていたのです。そして、サンパウロ・カトリック大学に講師として勤務しはじめました。大学では、後にブラジルの大統領になるルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ氏(1945-、大統領在任2003-2011)と仲良くなり、労働者党の成立に尽力しました。
 
1985年にはブラジルの軍事政権が解かれ、民間政府に変更しました。翌年には、教え子が政府の企画大臣に就任したことをきっかけに、サンパウロから首都ブラジリアに呼ばれて企画次官補として勤務しました。
 
ーーここまでお話しを聞いていると、政治活動を熱心にされていたんですね。政治の世界におられて仏教との関わりはどの様に始まったのですか。
 
佐藤:そうですね。仏教との出会いはもっと後のことです。
 
1995年に私は政府の大臣の候補者となりましたが、相手候補に敗れてしまいました。正直、大臣になれなかったことに大変落胆しました。私は気持ちの整理がつかないまま、家の近くを散歩していました。当時住んでいた家の隣には「ブラジリア本願寺」が建っていましたが、特に興味もなく、お寺に入ったこともありませんでした。
 
ところがその日私は本堂に入り、中にいた年老いた男性僧侶と会話をしました。その方は私に、仏の慈悲について話をしてくださいました。
 
その年老いた僧侶は、私に「仏の慈悲とは自分が気付かない時もはたらいている、それはまるで母が子を思うようなものではないか」と言われました。私はその話を聞いてハッとしました。これまで聞いたこともない、考えたこともないような話でした。それがきっかけとなって、毎週お寺に通うようになりました。
 

 

本願寺国際部ウェブサイト
http://international.hongwanji.or.jp
(ブラジリア本願寺をはじめ、海外の本願寺派のお寺の活動等を見ることができます)
 
ブラジリア本願寺ウェブサイト(ポルトガル語)
http://www.terrapuradf.org.br/

 
「ブラジル」
 

   

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掲載日: 2016.02.17

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