死に向かう人に寄り添える僧侶へ|花岡尚樹さんインタビュー<後編>
ビハーラ僧として
-患者さんは僧侶をどのように捉えていますか?
「お坊さんと共にいて、安心する」と言われるのは嬉しいですね。
実際には、僧侶ということが良いようにはたらくこと、悪いようにはたらくこと、両面があるように思います。
-例えば、良いようにはたらくとは?
看護師さんには言いにくいことを僧侶になら言えたりします。また医療に対して不安や時に不信な気持ちを持っている人も中にはいます。あるいは死に直面するなかで、「死んだらどうなるのか?」とか、お坊さんだからこそ話してくださる悩みもあります。過去の罪に対する意識とか、これまで誰にも相談できなかったことを、打ち明けてくださったりもします。僧侶として少しでもそんな気持ちに寄り添うことができればと思っています。
-ビハーラ僧の役割とは何でしょう
ビハーラ僧はみんな、自分に何ができるか悩みます。
患者さんが息を引きとるとき、手を握って話を聞いていただけでも、家族や患者からみると大きな役割になります。
逆に自分がこういうことしなきゃと思い計らって関わるのは、おすすめできません。患者さんに自分の価値観をおしつけるのはビハーラ活動ではありません。患者自身の思いに寄り添い、流れに身を任せることはとても大切です。
それでも、はたから見ているとビハーラ僧の役割は見えにくいでしょう。
わたしたちは、患者さんと一緒に悩める存在です。自分に力があるわけじゃない。そういう意味で無力であることは大切です。
活動の原動力
-無力であることが大切?
自分の無力から出てくる言葉は、相手を傷つけることはありません。無力と無力。ともに悲しみ、涙を流せる。患者さんにとって一番の支えじゃないかなと思います。
金子大栄さんの詩に「悲しみは悲しみを知る悲しみに救われ、涙は涙にそそがれる涙にたすけらる。※」という言葉がありますが、悲しみをありのままに受け止めることが大切だと思っています。
-僧侶として
僧侶として、もっと社会の矛盾に入り込んでいかないといけないように思います。僧侶としてできることはたくさんありますが、社会がかかえる矛盾にもっとアンテナを張って生きることが必要のように思います。
-本日はありがとうございました。
※ 金子大栄『歎異抄領解(たんにしょうりょうげ)』p.53(在家仏教協会)