「お念仏をよろこぶ人の姿が僕の原風景です」仏教と向き合い続けた釈徹宗さんの生い立ち<前編>
釈 徹宗さんが住職をつとめられる如来寺(写真提供:釈さん)
原風景は、お念仏をよろこぶ人たちの姿
――小さい頃は周りが窮屈だったとのことですが、お寺に専念されることに葛藤はなかったのでしょうか?
釈:それは全然なかったんです。むしろ、「したい」という思いが幼い頃からありました。窮屈さとは裏腹にお寺に集まっている人が好きでしたから。
よくかわいがってもらったというのもありますが、そんな素敵な人たちが集う「お寺」という場所を壊したくない、という思いがあったんです。
葛藤というか、悩むようになったのは浄土真宗のお寺の住職の道を歩み始めたときからですね。いったい自分は住職として何ができるのか、そもそも僕は浄土真宗を信じる人間なのか、そういう疑問が出てくるときがありました。
――釈さんはお寺のご住職として「場を維持する」ことを大切にされているんですね。
釈:そうですね。僕は宗教的感性が乏しい気がしていて。
阿弥陀さまに手を合わせるにしても、何か理由があって手を合わせていると思いたくなってしまう。何事にも理屈を必要としてしまうんです。
逆に宗教的感性にあふれる人は、そういった理屈がそんなにいらないんですよね。なんとなく手を合わせる、を地で行うと言いますか。僕はそんなふうに純粋にお念仏をよろこべないなと、お寺に集まる方たちを見て思っていました。そんな方たちを導くなんてとてもじゃないけどできません。
それなら、そんなお念仏をよろこぶ人たちが集まる場のお世話役が僕の役割なんじゃないかと思ったんです。
昨今、地域コミュニティがどんどん崩れてきています。それでも今あるお寺のコミュニティが続く限り、1日でも長く延命したい。その日が来るまでお世話役をする、それが僧侶として大切にしていることですね。
――お念仏をよろこぶ人たちの姿は、釈さんに大きな影響を及ぼしたのですね。
釈:そのとおりです。それが僕の原風景なんです。
よく本堂に向かってお念仏をしているおばあちゃんがいました。その方は本当にお念仏をよろこばれた方で。ある朝、窓を開けたらいつものようにおばあちゃんがお念仏をされていて、その姿を見たとき、後光が差していたんですよ。
仏さんがおる、そう思いました。そういう原風景は僕の中で揺るがないものなんです。
浄土真宗は、一見すると仏教の中では変異種みたいなところがあると思います。例えば、「自分は何ひとつ変わらない。すべて仏さまからいただく」などというところは、あまり仏教的ではありません。でもそうであっても、僕は浄土真宗が間違いなく仏教であるという自信が全然揺るがないんです。この道をずっとたどっていけば、ちゃんと仏教が説くところに到達する。おばあちゃんから見えた後光や、いろんな宗教的原風景がリアルな実感として僕の中にあるので、それが間違いないことだと信じています。
写真提供:釈さん