音楽や絵本を通して仏教を伝える、島の僧侶のおはなし│浅野執持さんインタビュー<前編>
仏教と音楽をナマで感じてもらえるように
メリシャカライブのポスター(写真提供:浅野さん)
――先ほどお話に出てきた「メリシャカ」には、どのようなきっかけで参加されたんでしょうか。
浅野:美術館を退職した私は、法話の勉強会に通うようになりました。
布教使として活動するようになりいくつか研修を経て、布教専従職員(現:布教研究専従職員)(*1)として本山に3年間勤め始めたのですが、その頃宿舎で同室だった僧侶の佐藤知水(さとう・ちすい)さんが「メリシャカ」の活動をされていたんです。それまでメリシャカはインターネット上が中心の活動だったのですが、私が美術館の学芸員だったときに展覧会などの企画をしていた経験もあったので、「インターネット以外でも何かしたい」という相談を受け、「メリシャカ」に協力するようになりました。
(*1)布教専従職員(現:布教研究専従職員):浄土真宗のみ教えを伝えることに特化し、西本願寺を中心に法話を行っている浄土真宗本願寺派の僧侶。
(参考:https://www.hongwanji.or.jp/news/cat5/001329.html)
――「メリシャカ」とはどのような活動なのでしょうか?
浅野:まずは西本願寺の近くにあるバーで、お酒などを飲みながら、仏教に詳しい方たちと一般の方とが交流できる「メリシャカナイツ」というイベントを始めたんです。京都滞在最後の年だった2009年、月一回のペースで実施しました。
西本願寺に来られた僧侶や、会議や研修会で来られた先生方に、夜になったら会場であるバーに来てもらえるようお声がけしました。そのうえで一般の方も入れるようにして。一年くらいかけて、規模を少しずつ大きくしていきました。
――そういった交流の場を求めていた人が多かったということかもしれませんね。規模の拡大に伴い、変えられた部分はあったのでしょうか?
浅野:そんな活動を続けていくうちに、今度はお寺に来てもらいたいと考えるようになりました。
ですが、単にご法座をしたとしても、若い方は来られないだろうという思いがあって。佐藤さんも私も音楽が好きだったので、仏教と音楽をナマで感じてもらえるイベントとして、「メリシャカライブ」を考えました。
ただやはり仏教のイベントですから、ご法話をメインに据えて、イベントのサブタイトルも「法話 meets MUSIC」にしました。音楽と同時に、ご法話や読経という仏教の音色も肌で感じてほしかったんです。
この「メリシャカライブ」には普通にご法座をするだけでは来られないと思っていた10代から30代の音楽ファンの方が多く来られましたね。年一回の開催を十年ほど続けましたが、300人ほどの会場がいつも満員になりました。アンケートを行ったところ、音楽だけではなくご法話や「仏教に感動した」という意見がとても多くて、私としては大成功のイベントだったと思っています。
――「メリシャカライブ」を開催するにあたって工夫されたことはありますか?
浅野:どうしても、仏教と音楽が分離してしまうんじゃないかという懸念がありました。参加されても、結局音楽にしか興味を持ってもらえないのでは、と。
なので、仏教と音楽を繋ぐきっかけとして、芸能活動をされていた木下明水さんに司会を勤めてもらいました。「仏教に感動した」というアンケート結果は、木下さんのおかげでもあると思っています。法話の後、法話者を交えてトークセッションの進行をお願いしたのですが、来場者の声を拾ってもらったり、リアクションを求めたり、そこで会場内に一体感が生まれたように思います。
仏教とキリスト教は似ている?
――浅野さんは宗教哲学を学ばれていたとうかがいましたが、そのときの学びが今も活かされていると感じることはありますか?
浅野:宗教哲学は一つの宗教だけを扱うわけではないので、なるべく普遍的に考えるんです。キリスト教と仏教を考えるときでも、その違いを探すのではなく、共通点を考えるところに重きを置きますね。宗教哲学を勉強したことで、他の宗教の中に浄土真宗的な要素を見ていく習慣がついたように思います。
――たとえばキリスト教のどんなところに浄土真宗との共通点を見られますか?
浅野:まずキリスト教は、イエスキリストは十字架にかかって亡くなった後、復活します。それを自分のためだと信じるのがキリスト教の信仰なんですね。イエスは全ての人類の罪を背負い、その贖罪のために十字架にかけられ、そして許されて復活を遂げた、とキリスト教では考えます。これは、法蔵という菩薩が修行を重ねて、すべてのいのちを救うという誓いを持って、南無阿弥陀仏となられたことと似ています。
――なるほど。他にそうした共通点を感じられたようなエピソードはありますか?
浅野:建学の精神にキリスト教を掲げる広島女学院大学の教授と、広島仏教学院の講義で対談させていただいたときに、その先生は「私は毎年新入生が入学したときにキリスト教のことを説明するために金子みすゞさんの『大漁』という詩を紹介するんです」とおっしゃいました。
『大漁』は、人間は魚がたくさん獲れたことを喜ぶけど、魚の世界ではお葬式をしている、という内容の有名な詩ですよね。先生は「これがキリスト教なんです」とおっしゃった後、「浄土真宗の考え方と同じですね」と続けられました。いのちの尊さや普段それを意識せず生きている私たちに気付かせてくれる。キリスト教の先生もそんな風におっしゃるんだと感銘を受けました。
絵本で広がる正信偈の世界│浅野執持さんインタビュー<後編>