持続可能な環境を実現するまちづくり② 自然環境に寄り添う経済<後編>

持続可能な環境を実現するまちづくり②
  自然環境に寄り添う経済<後編>

 
 

菱川 貞義(NPO 法人いのちの里京都村理事/浄土真宗本願寺派総合研究所委託研究員)

 

 

お金との付き合い方を見直すことがまちづくり

 

 
お金の問題は複雑ですが、その問題のはじまりは、お金の「劣化しない・無限に増やせる」という特徴に目をつけた者たちが、お金そのものを商品化してしまったことにあるでしょう。
『エンデの遺言~根源からお金を問うこと~』(NHK出版)にはお金のことを理解できる手がかりがあります。社会問題に立ち向かった児童文学作家で『モモ』や『はてしない物語』等で有名な、ミヒャエル・エンデ(1929~1995)の問題意識が綴られています。
 

エンデはラストインタビューで、「重要なポイントは、例えばパン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で使われる資本としてのお金は、二つの異なった種類のお金であるという認識です」と語っています。
 
エンデは、お金にはいくつもの異なった機能が与えられ、それが互いに矛盾して問題をおこしているといいます。第一にお金にはモノや労働をやりとりする交換手段としての機能があります。第二にお金は、財産や資産の機能ももっています。このお金は貯め込まれ、流通しないお金です。さらにお金には、銀行や株式市場を通じてやりとりされる資本の機能も与えられています。そこではお金そのものが商品となり投機の対象となります。いくらでも印刷できる紙幣、さらにはコンピューター上を飛び交う数字となったお金は、実体のないままに世界を駆け巡っています。現代の通貨は、まったく違う機能を、同時にもたされているのです。それが日々変動しながら世界を駆け巡り、生活や生産の場を混乱させているというのです*1。

 
これによれば、お金の一番目の機能は「交換機能」であり、サービスとモノの流通を手助けするための潤滑油のようなものです。これにより社会に存在するサービスとモノは社会の中をスムーズに移動します。このお金が交換に使われれば使われるほど市場は活発化し、様々なモノとサービスは必要な人の元に届きやすくなります。
 
第二の機能は「財産や資産」であり、いくらでも手元にとどめておけるという、一番目の機能と矛盾するものです。現代社会では交換は基本的にお金を媒介として行われます。つまり、このお金を手元に貯め込むことは、社会におけるモノやサービスのスムーズな移動を阻害することに等しいのです。このほかに、第二の機能の派生としてお金そのものをお金でやりとりする「資本」としての機能もあり、これによってお金はモノやサービスではなく、お金そのもののために使われていくこととなります。つまり、社会を豊かにするはずであったお金は、この第二の機能を持ってしまったことで社会を混乱させている、ということになります。
 
一番簡単なまちづくりは、このお金の仕組みを中立・公平に戻し、本来の目的どおりに、お金をモノや労働から生まれる商品やサービスとの交換でしか使えないようにすることでしょう。これを実現するためには、他のモノやサービスと同じようにお金も時間が経てば減価する仕組みにして、貯め込めないようにするか、お金に商品価値をもたらすような金融商品の類をすべて禁止にします。しかし、それは既得権益の問題で、ほとんど不可能でしょう。
 
そこで、お金とうまく付き合っていく方法を考えます。旅行や車や携帯電話のようなものにはお金を使いますが、基本的な生活においてはなるべく地域内でサービスやモノが循環する流れをつくれるように、お金を補完する仕組みを集落ごとに集落の特色や事情に合わせてつくります。そのための道具のひとつが地域通貨です。
 
地域通貨は、割引券や金券配布のような機能で留まっているものも多いですが、本来は地域社会の中で、生産・流通・消費に代表されるサービスやモノの流通、つまり経済を媒介し、人から人へ渡りながら必ず発行元に戻るという、まさしく先に述べた通貨の第一の役割を代替するものです。
 
この本来の地域通貨の代表例として、『エンデの遺言』の中でオーストリア・チロル州・ヴェルグルの地域通貨「労働証明書」が紹介されています。1922年にはじまった世界恐慌はオーストリアの地方都市にも深刻な不況をもたらし、お金はどこかに貯め置かれました。お金が循環しなくなり失業者は爆発的に増え、生産は減り、消費も落ち込んでいきました。そして1932年になって、ヴェルグルだけで通用する地域通貨が発行されました。
 
この地域通貨の特色は一カ月に1%ずつ価値が減っていく仕組みの、老化するお金です。実際に「労働証明書」は貯め込まれることなく地域内をものすごいスピードで流通し続け、一年足らずで失業率はほぼ0%になりました。しかし地域通貨を脅威に感じたオーストリア政府が管轄する中央銀行が裁判をおこし「労働証明書」を禁止すると、すぐにまた失業者で溢れかえってしまいました*2 。
 
「お金の仕組み」に真っ向から取り組み大成功した歴史的大実験でしたが、やはり、真正面から立ち向かうのではなく、しなやかに、日々の暮らしを楽しみながらやわらかく立ち向かうほうがいいのかもしれません。
 

まわりに寄り添う

 

 
今日の主流の経済にとって、地球資源は無限でないと都合がよくありません。無限であるからこそ無料で使っていてもとがめられずにいます。私たちは地球資源には限りがあることは知っているのですが、未来の進歩した技術や新たな発見によってなんとかなると思い込んでいます。そして、いよいよ資源が枯渇するようなことになれば、地球の外の資源をとってくればいいと考えて研究や開発をしている人たちもいますが、そのためにはますますお金が必要になるでしょう。
 
現在は「誰かがやってくれる」「未来になったら何とかなる」と信じながら、借金を重ね、地球をないがしろにしてお金への依存度を高め続けている、という状況です。ついに、自分で借りたお金を自分で返すことも放棄し、保全できなかった地球と返せなくなった借金を子どもや孫やそのあとに続く未来の人間に押し付けています。これが成長を基本路線とした現代社会の姿です。本当に、これでいいのでしょうか。
 
未来に借金をさせてまで成長しようとする現代社会のなかで、いま、私たちがやらなければならないことは、表層の問題への対応ではなく、私たち自身が変わり、根源の問題であるお金への依存度を下げること。そしてそのために、まわりの自然環境に寄り添うことです。
 
例えば、お米は田んぼで稲を育てることで手にできます。稲に適していない土地は、麦か蕎麦か芋か何かが適しているでしょう。育ち方は土地により差があります。その土地の地力に合わせて苗を植える間隔を決めます。収量を増やしたいからと密植にすると問題をおこします。
 
稲1本1本が受けられるエネルギーが減るうえに、日光も十分に受けとれず、風通しもわるく、体が弱くなり虫に食べられたり病気になったりする稲が増え、結果としてかえって収量が落ちてしまいます。土地に合った収量を守っていれば、毎年変わることなく実りを手にすることができます。またこの際、農薬や肥料を外から持ち込む必要もありません。農薬は作物が虫によって食べられることを防ぎますが、そのほとんどは大地に浸透し、土や水を汚染しますし、肥料は結果的に稲を脆弱にしてしまいます。
 
その土地に育つことができる草木にとっては、そこに居るだけですでに足りているのです。「毎年、稲刈りしてお米を食べていたら土の中の栄養がなくなるから、肥料は必要だ」と思われるかもしれませんが、自然界はすべてのものが巡っています。大地から育つ実りをエネルギーとして活用している人間を含めた動植物は、排泄物を出し、やがて亡骸となります。これが大地の新しい肥料分となります。排泄物も田畑の中に施す必要はありません。どこかにあれば、やがて巡ってきます。それに、草木は土から栄養をとるだけでなく、太陽からも空気からもエネルギーを取り入れています。農薬も肥料も外から何も持ち込まなくていいのです。
 
こうして「外から何かを持ち込むことなく育った」作物を基準に生活を組み立てると、循環する持続可能な社会の枠組みが見えてきます。こうした社会こそが「足りている」精神性に基づいた社会であり、こうした暮らしにどれほど近づけることができるかが、今の私たちの生活に問われていることといえるでしょう。「足りない」発想の経済と、私たちの暮らしが急激に世の中を変えてしまった今、お金との関係性、いのちとの関係性を建て直し「足りている」ことを思い知り、まわりに寄り添い、成長するのではなく循環する持続可能な社会をつくるのは、今や厳しく大きな方向転換となってしまいました。
 
お金も人間が創り出したものです。お金が自然環境を含めた共同体への依存度を弱めているとすれば、人間がどこかでそのように望んでいるのかもしれません。まわりの人や自然に依存しなくなれば、「つながり」が大事だ、という感情は薄れ、不便さや災いの元として「つながり」をわずらわしく思う気持ちが強くなるでしょう。今のお金の仕組みに頼らず「足りる」ことを実感できる持続可能な社会をどうやってつくるかは大きな課題でしょう。少なくとも私たちが変わらないままでは、それはほぼ不可能なことといえます。仏教には「少欲知足」という教えがありますが、このままお金に時間を搾取され続けて、地球を搾取し続ける生活は仏教的といえるのでしょうか。「足りない」心は、まさしく人類の煩悩のあらわれです。その人類の煩悩が、お金の仕組みを使って地球環境を持続不可能にしようとしている今、お寺が地域にできることは何でしょうか。私たちはもう一度足元から社会を見直すことを問われているのかもしれません。
 

*1 河邑厚徳、グループ現代『エンデの遺言~根源からお金を問うこと~』NHK出版、2000、55〜56頁参照
*2 河邑厚徳、グループ現代『エンデの遺言~根源からお金を問うこと~』NHK出版、2000、143〜152頁参照

 

Profile

 

 

菱川貞義(ひしかわ・さだよし)
講談社こども美術学園講師、印刷会社、デザインプロダクションを経て、1989年に広告会社(株)大広に入社。デザイン、コピー、プロモーション、プランニングの仕事をしながら、地球環境プロジェクトチームとして滋賀県・NTT共同プロジェクトに参画し、「市民参加型情報ネットワーク」の社会実験「びわこ市民研究所」を運営。
2006年から環境に負荷をかけない自然農を実践。
2008年には「275研究所」を社内ベンチャー組織として立ち上げ所長に就任。2012年に農村再生をミッションとするNPO法人いのちの里京都村を設立。
2014年からは浄土真宗本願寺派総合研究所の他力本願.net のプロジェクトに参加、委託研究員として「1000年続く地域づくり」をテーマに、まちづくり、セミナー、ワークショップ等を行う。

 

<次回のコラム記事>
持続可能な環境を実現するまちづくり③<前編>(近日公開予定)
   

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掲載日: 2021.05.11

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