持続可能な環境を実現するまちづくり③ ふつうに働けばふつうに食べられる社会<後編>

持続可能な環境を実現するまちづくり③
ふつうに働けばふつうに食べられる社会<後編>

 
前回までは「環境問題の解決を可能とする新しい共同体と、その共同体を解体し社会を混乱させているお金」について論じましたが、今回は新しい共同体による持続可能なまちづくりについて考えてみます。
 

 

成功するまちづくり

 

 
ではどうしたらまちづくりは成功するのでしょう。「まちづくりのゴール」とはいったいどこにあるのでしょう。「まちづくりのゴール」をかんたんにいうと「自治活動も環境保全活動も福祉活動も経済活動も持続可能な地域社会」でしょう。私は「まちづくり」を「千年つづくまちづくり」と言い換えることでわかりやすくなるのでは、と考えています。
私は、まちづくりの際には「千年」というキーワードを出すことを大切にしています。「住んでいる地域が千年後にどうなっていてほしいか」を想像するとき、お金や自分の子孫というような個人の利益調整が意味をなさなくなるからです。
 
ただ共同体の行く末のこと、地域の自然環境との共生が関心事になります。千年後を想像するまちづくりワークショップでは、ほとんどの人が、自分のことではなく共同体のことを考えはじめると、なぜか幸せな気持ちになる体験をします。
自分がどのようにあるのがいいのかを頭ではなく体が先にわかっているのかもしれません。そうしてワークショップを重ねていくと、それぞれの地域ごとの、うまくやっていくためのゴールが見えてきます。まちづくりのゴールは、ゴールすることそのもの(千年つづくまちづくりが達成されること)ではなく、ゴールのビジョンと、そこへ向かう姿勢を地域のみんなで共有し、持続可能な地域の姿をつくることにあります。
私は、「千年つづくまち」を、それぞれの地域がそれぞれの地域らしく、そこにいる人を含めた自然環境を持続可能に保つために、さまざまないのちの「ひたすらな働き」があれば、ふつうに幸せに暮らしていくことができる社会、つまり「地域共同体のなかでふつうに働けばふつうに食べられる経済システムを備えた社会」であると定義しています。
「ひたすらな働き」とは、それぞれのいのちが、自分のできることをもって、惜しむことなく動くことです。とくに意識するものでもなく、健全な共同体のなかにいて体を動かしたくなることにまかせて動くことであり、さまざまな生き物たちが日々の暮らしの中において自然に行っていることです。
地域や共同体においては、自分ができる「ひたすらな働き」が土台にあってはじめて、いろいろな生き方をすることができます。いのちをもつ者にとってこの「ひたすらな働き」は必須であり、持続可能性を保証してくれるものです。
 
「働く」の語源は「傍が楽になるように動くこと」であるという説があります。その意味は、地球上のあらゆる生き物は、ひたすらに働いて(動いて)いるといえるでしょう。たとえば、ミツバチやチョウチョなどの虫は花から花へ花粉を運び、植物たちが実をつけるのを助けます。虫たちはこのとき意識して生態系を支えるために働いているわけではありません。ただ、生きるために、生態系の中で自身のできることをひたすらに続けているだけでしょう。他の生物も同じ事です。さまざまないのちによるさまざまな「ひたすらな働き」の複雑な組み合わせが、生態系という自然界における持続可能な共同体です。
もし、ミツバチやチョウチョなどの虫が、ある1年のあいだ働くことをやめ、花にやって来なくなったら、それだけで、ほとんどの植物が実をつけなくなり、草食動物や肉食動物に影響が及び、さらに他の生きものにも伝播し、生態系全体が危機に瀕してしまうでしょう。同じように、私たち人間も何らかの理由をつけて働かないで日々を過ごすようなことがあれば、持続可能性を脅かす存在になってしまうかもしれません。少なくとも生態系にとって不要な生きものになってしまうことは避けられないでしょう。
 
「働き」とは、「その人のできること」であり、具体的には米をつくる働きであったり、他者に寄り添う働きであったりとさまざまです。それは先ほどたとえに挙げたミツバチやチョウチョも同じです。
事故か何かで飛べなくなってしまったとしても、いのち終えるその時まで、悔やむことなく、止まることなく、そのときできる働きをしています。地球上の多様ないのちがひたすらに、それぞれのできることを自然にまかせて行うことが、「ふつうに働く」ということだと思っています。
その共同体に住む人が、千年という自身の利害を超えたスケールのゴールを共有し、それに向かって自分にできる働きを、自然に任せてひたすらに、ふつうに働くことで生きていけるしくみを備えた持続可能な共同体の構築こそが、成功するまちづくりなのだといえるでしょう。
 

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まちづくり=自己中心性に向き合う

 

 
お金によって共同体が年々弱まっています。共同体を弱体化させているのはお金ですが、お金は人間がつくったものであり、共同体を弱体化させる力の大元は人間にあるはずです。しかし、人間の中のどこにあるのか見ることができません。巧妙に、複雑に、混沌とした、共同体を弱める「何か」の力が世界に蔓延しているのが近代社会です。お金の機能を信じられないものにしているのも同じ力です。これは今も増殖中で、幸せからほど遠い社会の姿を理想の社会だと信じさせています。
 
お金をつくったのは人間ですし、お金を商品化して地域を持続不可能にしたのも、地球環境問題を引き起こしているのも人間です。もちろん、人間も意図して地域や地球を壊しているのではありません。しかし、地域や地球が壊れていく事実と直面したいまも、解決には消極的で
す。問題が解決しない原因を政治や行政や企業に求めたりもしますが、その本当の原因はそれぞれの人間の中にあります。
 
問題を解決したいと思っている自分が原因をつくっていて、自分が原因を取り除くことができるのに、「何か」が邪魔をして自分で取り除くことができないでいます。私たちは問題の原因が自分の中にあるとは思いもせず、外に「敵」を作り出しては、それに戦いを挑むことを繰り返すばかりで、いつまでたっても原因そのものに向き合うことがありません。おそらく、すべての原因であるこの「何か」とは、すべての人間が生まれつき備えている「自己中心性」がかかわってきます。私たちはこの自己中心性ゆえに、共同体を弱体化させるような選択をとり、自分は悪くないと外に「敵」を作り出し続け、問題を先延ばしにし続けています。
 
まちづくりには、こうした私たちのありさまを認識できるものにしたうえで、その影響力に対抗するための力が要ります。弱体化した共同体をほどほどの強さにするための助けとなる力です。人間を外から無理やり抑え込む強制力をもつ、制度のような力ではなく、私たちが自分の中の自己中心性に向き合っていけるようになるための力です。経済の成長は不要ですが、私たち自身の心の成長が必要となります。私たち一人ひとりが変わって、自分の自己中心性に向き合い、強制力が強すぎないほどほどの共同体が形成されれば、ゆっくりと半自動的に「小さな幸せに満たされたまち」づくりがすすんでいきます。そのために必要なのがお寺の、ひいては仏教の力なのかもしれません。
 

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Profile

 

 

菱川貞義(ひしかわ・さだよし)
講談社こども美術学園講師、印刷会社、デザインプロダクションを経て、1989年に広告会社(株)大広に入社。デザイン、コピー、プロモーション、プランニングの仕事をしながら、地球環境プロジェクトチームとして滋賀県・NTT共同プロジェクトに参画し、「市民参加型情報ネットワーク」の社会実験「びわこ市民研究所」を運営。
2006年から環境に負荷をかけない自然農を実践。
2008年には「275研究所」を社内ベンチャー組織として立ち上げ所長に就任。2012年に農村再生をミッションとするNPO法人いのちの里京都村を設立。
2014年からは浄土真宗本願寺派総合研究所の他力本願.net のプロジェクトに参加、委託研究員として「1000年続く地域づくり」をテーマに、まちづくり、セミナー、ワークショップ等を行う。

 

<次回のコラム記事>
持続可能な環境を実現するまちづくり④<前編>(8月17日公開予定)
   

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掲載日: 2021.06.04

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