僧侶としてどうあるべきか?|僧職図鑑20ー木村 共宏③

木村さんへのインタビュー第3回。最終回となる今回は、商社時代に得た経験をもとに、現代の僧侶や寺院のあり方を伺いました。商社と寺院に見いだせる共通点、いかに宗教を現代人に受け入れられるようにするか……非常に鋭いご指摘を頂戴しました。
 
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商社マンから僧侶へ大転身!その「生き方」に迫る|僧職図鑑20ー木村 共宏①
 
いま、僧侶の価値が問われている
 
ーー18年間商社に勤められたご経験の中で、僧侶や寺院が参考にすべきことは何かありましたか?
 
木村共宏さん(以下、木村):お寺と共通する部分でもあると思うのですが、商社に学ぶべきところがあるとすれば「人しかいない中でどうするか」というところだと思います。
企業の多くは製品を作るための設備や工場を持ったり、サービスを提供するための交通インフラや通信インフラを保有したりします。しかし、商社は基本的にそういった資産をもって製品やサービスを提供するわけではありません。商社の資産といえば、中で働く人間くらいのものです。
 
商社は他の多くの企業や顧客の間に立ってビジネスを行います。ですが、いつも喜んで間に入れてもらえるわけではありません。商社が間に入らなければ余計な手数料を払う必要がありませんので。だから、彼らから必要ないと言われたらそれまでなんですよね。
僧侶も似たようなところがあると思うんです。僧侶はお寺があるがゆえに、ついついお寺の方に意識がいきがちです。ですが、お寺が何かをどんどん生み出すわけではありません。つまり、僧侶自身がとても大事なんだと思います。良くも悪くもお寺に甘えたり、お寺のせいにしたりしている部分があるのではないかと思います。
僕は未来の住職塾で教える時に、「もしお寺を持たない僧侶だったらどうしますか」と聞くことがよくあります。しかし、そういう風に考えたことがないのか、ちゃんと答えられる人はなかなかいません。
 
お寺自体にも確かに価値はあるかもしれませんが、それ以上にそこにいる僧侶の価値が問われるのが今の時代だと思います。ですので、僧侶は自分自身を見つめてどうあるべきか、何をすべきかを考える必要があると思います。昔も「聖(ひじり)」と呼ばれた、お寺を持たない僧侶がいたと聞いています。僧侶自身が何をなすべきかをしっかりと持って、その上でハードとしてのお寺の強さと結びつくと、僧侶とお寺の関係は、鬼と金棒の関係になると思います。
 
いまや時代の変化のスピードは増すばかりです。商社というのは、常にその変化を受け止めて、新しい仕事を創っていかなければならない業態です。商社の仕事はまさに「諸行無常」だと思うんです。その「諸行無常」の教えを本来もっとも理解しているのは僧侶であるはずです。僧侶こそが時代の変化に最も敏感でなくてはならず、変動の時代をリードしていく存在であるべきではないでしょうか。
 
国際文化会館で行われた新渡戸国際塾の様子(2018年撮影)
 
現代において僧侶が果たすべき役割
 
ーー現代において、僧侶はどのような役割を果たすべきでしょうか。
 
木村:一つには、今の人にも役立つ古(いにしえ)の教えを、今の人が受け止めやすいように咀嚼して通訳する役割があると思います。僕はある時期から、古の教え、平たく言えば、昔からおじいちゃん、おばあちゃんに言われてきたようなことがすごく大事だなと思うようになっていました。でも、そういったものは使い古されていて、当たり前すぎて、現代人には軽視されがちです。
例えば、「靴を脱いだら揃えましょう」というのは、誰しもお母さんや先生に教わったと思います。でも、めんどくさがってちゃんとやらない人も多いかと思います。
 
「靴を揃えることは心を整えることである」というようなことを読んだことがあります。確かに散らかった靴を見るよりは、きちんと揃っている靴を見る方が気持ち良いですね。
臨床心理学で、「if-then プランニング」という理論があるそうです。”if” 靴を脱いだら、”then” 揃えましょう、という風に、良い習慣づけをするための方法論です。if-then プランニングによって良い習慣づけをすると、それが健康に寄与するということが科学的に明らかになっているそうです。そう聞くと、「じゃ、健康のために靴を揃える習慣をつけよう」と考える人も出てくると思います。
 
現代人は科学に弱いですね。科学的に証明されたことに対してはすぐに受け入れます。ですが、科学的な証明を待たずとも、昔の人はいろいろなことを教えてくれているんですね。
僕は古の教えを軽視するべきではないと思っています。「時の試練」を乗り越えたもの、つまり、長い年月の間に淘汰されていたかもしれないのに、それを乗り越えて今に伝わってきたものは、各時代の人が重要だと思ったからこそ受け継がれてきたわけであって、それだけ大切なものだと思うからです。ですが古の教えを現代人に納得してもらうには、一度科学的根拠とか、短期的な現世利益的な効能を説明してあげる必要があります。
「臨床心理学で、if-then プランニングは健康に寄与すると言われています。だから健康のためにも簡単に始められる『靴を脱いだら揃える』という習慣から始めてみてはどうでしょうか」と説明すると、「なるほどいいことを聞いた」と受け取る現代人は多いのです。そこに続けて、「でも『靴を揃える』って、昔から普通に言われてきたことですよ」という解説が今の時代には必要です。
 
これを繰り返していけば、そのうち「古の教えって深いんだな」、「実は大事なんだな」と思ってもらえるのではないでしょうか。科学的根拠がなくても昔から言われているならとりあえず大事にしておこう、と考えることができれば、先人の知恵である仏法にも興味を持ってもらい、回帰するきっかけに繋がるのではないかと思います。
現代には、この咀嚼して解説してくれる人がなかなか居ないので、古の知恵が伝わらず、徐々に廃れていくのではないかと懸念しています。その解説を僧侶が担うべきではないかと思っています。
 
ーー古の知恵と現代科学を融合させる役割を僧侶が担うべきということですね。
 
木村:そうですね。古の知恵を咀嚼して伝える、その時に科学的な部分も考慮するとより伝わりやすいと思います。いきなり仏法を語り始めるやり方では、一般の方にはとっつきにくいでしょう。相手の立場に立って、入り込みやすいようにと考えるなら、最初は相手の一番わかりやすい話から始めるべきだと思います。平易な言葉を使い、宗教色も感じられないくらいで良いと思います。人々が深く興味を持ってくれた時に「実はここまでお話ししたことはもともと仏法に書いてありまして」と説いていく。すなわち仏法は最後に種明かし的に出てくるという方が伝わりやすいと思います。
 
未来の住職塾NEXT オンライン配信の様子(2020年撮影)
 
ーー宗教全体で見ると、どのような役割があるでしょうか?
 
木村:僕はよく宗教・哲学・科学と3つを並べて比較します。現代社会では科学を否定する人は極めて少ないですね。即ちほぼ100%受け入れられていると言えるでしょう。哲学も人生の知恵として比較的受け入れられている。しかし、宗教の受容度は下がる一方です。科学が発達した以上、宗教がかつてほど信じられなくなってしまっているのは、やむを得ないとは思います。
 
宗教の存在感は低下する一方ですが、ではゼロになるかというとそうは思いません。というのは、哲学や科学では「死」に対する悩みや苦しみといった、人間の心に必ずつきまとう根源的な問題を解決することができないからです。平和で健康な時は自分の死について考えることはほとんどない時代になりました。そのようないわゆる平時においては科学や哲学の方が役に立つのでしょう。ですが自分の死を意識する段階になれば状況は変わります。僕自身がまさにそうであったように、科学を突き詰めても、哲学的に思考しても、自分の肉体が滅びた先の答えを見出すことは困難です。宗教はそんな科学と哲学がカバーできない部分に役割があるのではないかと思います。
 
ーーとなると、寺院もそうした哲学や科学ではカバーできない役割を担うことになるのでしょうか?
 
木村:宗教の役割、お寺の役割、僧侶の役割、というものは重なる部分もありますが、分けて考える必要があると思います。お寺は宗教的な場所としての役割を担うことは間違いないでしょう。それはお寺の原点だと思います。それはそれとして、歴史的に見ても、お寺はそれ以外の役割も担ってきました。また、現在の外部環境に応じた、新たなお寺の役割というものもあり得ると思います。
お寺は全国に7万か寺もあり、置かれている状況もさまざまなので、それぞれ担うべき役割は一律に同じというわけではないでしょう。
 
改めて問われる寺院の役割
 
ーー寺院の役割も改めて考えなければいけませんね。
 
木村:そうですね。振り返れば、江戸時代の寺院は戸籍を管理する役所でした。ですから必然的に訪れる必要もあったと思います。現代の寺院にも公共性はあります。そういう背景を考えれば、少子高齢化・過疎化の流れもあるので、いま自治体が担っている役割の一部を、かつての役所である寺院が担うという発想もありだと思います。
 
家族経営のお寺はいろいろ大変ですが、逆に言えば転勤がないので、地域で何かを任せる対象としては向いているとも言えるでしょう。宗教法人では身動きが取りづらい場合は、NPOや一般社団法人を設立するもよし、方法はいろいろあります。
多くのお寺で存続が危ぶまれていますが、本来の役割と新たな役割を考え、出来ることを尽くすのが第一。とはいえそれでも立ち行かないのであれば、最終的には廃寺とすることも一つの選択肢になるのではないかと思います。江戸時代に役所として全国にお寺が整備された時、道場だったところもお寺に格上げされたケースが多々あります。役所として必要とされるお寺の数と、役所機能を持たない宗教施設としてのお寺の数は本来異なるでしょう。そう考えると現在はお寺の数がそもそも多過ぎるのではないかと思います。お寺の数を減らすか、お寺に役所機能を戻すか、というのはちょっと飛躍した発想に聞こえるでしょうが、歴史的背景を考えれば必然的に出てくるアイデアです。いずれにせよ廃寺は簡単には受け入れられないかもしれませんが、お寺の存続については、現実を冷静に見ることも重要だと思います。

 
仮に寺院が立ち行かなくなったとしても、それはお寺の話であり、個人として僧侶を辞めるわけではありません。結局のところ、あくまでも一人の僧侶としてどうあるべきか、が問われると思います。
また、お寺の維持で頭がいっぱいになってしまうと、発想も固まってしまいます。現状維持への執着を捨て、寺院ありきで考えることをやめ、一人の僧侶としてどうあるべきか、何をするべきか、を考えることで発想も広がるのではないでしょうか。その結果として何らかの価値を発揮できれば、再び人も集まるのではないかと思います。
 
本願寺派吉崎別院でのお勤めの様子(2020年撮影)
 
「頼りにされる僧侶」を目指して
 
ーー社会から価値のある僧侶として認められるには、何が必要でしょうか?
 
木村:少なくとも誰かひとりから必要とされる存在になることでしょう。わかりやすく言えば「ワシの葬式はあんたに頼む。アンタしかおらん!」と言われるような存在になることが必要であり、原点だと思います。そう言ってくれる人がひとり、またひとりと増えていくと、僧侶としても認められるのではないでしょうか。
うちの寺の檀家だから葬式はうちがやる、という契約の話では本来ないはずです。もし今日から日本中で「葬儀は好きなお寺、お坊さんに頼んでいただいてよい」となったら、自分のところは依頼が増えるでしょうか、減るでしょうか。増えないようなら危ういと思います。要はちゃんと相手に寄り添えているか、頼りにされているかということだと思います。
 
もう13年前のことになりますが、実は僕は2人目の子どもを生後1日で亡くしました。もちろん葬儀を行ったのですが、当時僧侶のあてがなかったので、葬儀屋さんに宗派を伝えて手配をお願いしました。その時来られた僧侶は、亡くなった子供の名前と年齢など最低限の情報を聞くのみで、特段それ以上の関わりはなく、形通りに物事を進めていました。これだったら誰がやっても同じだし、むしろ自分でお経を読んだほうが良いなと率直に思いました。誰がやっても同じならサラリーマンですね。でも僧侶って違うと思いますし、一般の人はサラリーマン的な僧侶は求めていないと思います。相手の気持ちを汲んで、寄り添える僧侶が求められます。僕も僧侶としてはまだまだ未熟ですが、あの時の気持ちを忘れずに精進していきたいと思っています。
 
ーー最後に木村さんご自身の今後の展望も絡めて夢を語っていただければ
 
木村:人生50年と言いますので、自分の人生もあと1年ちょいで終わりです。そのあとはボーナスステージだと思っています。ですからもはや夢を語る歳ではないんでしょうね。それはそれとして、僕は人に喜ばれると嬉しくなります。そして、なにより人から必要とされることが励みになります。
人は何か相談したい時に、「あいつにだけはぜったい相談したくない」と思ったり、「あの人にぜひ相談しよう」と思ったりします。自分はできるだけ一番最初に相談したいと思われる人間になりたいな、と思います。そのように頼りにされる人間として命を終えられたらきっと嬉しいんじゃないかなと思うんです。この先、そういう人間に一歩でも近づけるようになることが夢でしょうかね。
 
それと、みんなに夢というか希望を持ってもらうことも自分のしたいことですね。希望を失ったり、そこまでではなくても閉塞感の中で気持ちが落ち込んでいる人は多くいます。相談に乗りながら、状況を打開して光が見えてくると、皆さん表情が明るくなり、生き生きとしてきます。自分がみんなに頼りにされて役に立ち、みんなに希望を持ってもらい、元気になってもらうこと。そんな人間として人生の幕を閉じることでしょうか。
 
僕が前職の時に考えたリーダー像は「私心無く、ハラがくくれて、夢を語れること」でした。自らの利益を最優先にして、大事なところで責任を取らない人には誰もついて行きたくないですよね。だから私心なく、ハラを括れることはリーダーシップとして大事なんです。それは自分を律することでもあります。ですが、ただストイックなだけでは、それもなかなかついて行くのが大変です。だからこそ夢を語ることが必要です。夢を持つことで、ストイックでもいられるわけです。甲子園優勝を目指す高校球児が、厳しい練習に耐えるような感じと言えば伝わるでしょうか。その夢に共感した人が集まって、一緒に何かをやれるとすばらしいですね。
 
ーーありがとうございました。
 
<編集後記>

 
「宗教がかつてほど信じられる時代ではなくなった」、「必要が無いのであれば廃寺もやむを得ない」……これは、寺院関係者にとって認めたくない現実でしょう。しかし、宗教でしか担えない領域がありますし、僧侶や寺院が担うべき役割が全くなくなったわけではありません。
 
社会と寺院の関係は密接している以上、完全に切り離して考えることは出来ませんし、逆に社会での経験が今後の僧侶や寺院のあり方にヒントを与えることもあるでしょう。
「諸行無常」の教えの通り、社会は常に変化し続けています。その中で、これまでの常識にとらわれていては、いずれ淘汰されるのは必然と言えるでしょう。そうならないためにも、自らを律し、多様な知見を柔軟に取り入れ、柔軟に思考する。「1人の僧侶として何をすべきか」は、それぞれが改めて問い直すべきではないでしょうか。今回のインタビューでそう気付かされました。木村さん、ありがとうございました。(終)

 

木村共宏(きむら ともひろ)さん
1972年、神奈川県生まれ。
大学卒業後、三井物産株式会社にて18年勤務。海外ビジネスに従事する傍ら、2009年9月より鯖江市地域活性化プランコンテストのアドバイザーを務める。
2015年3月に退職し、企業顧問・コンサルタントを務める傍ら、2016年4月より3年間、鯖江市地域おこし協力隊に就任。2017年10月に得度し、僧侶となる。
2018年4月より浄土真宗本願寺派の企画諮問会議委員、2019年4月よりNPO法人インド太平洋問題研究所副理事長、同年9月より未来の住職塾NEXT 講師。

 

掲載日: 2020.10.23