震災の教訓が生んだシェアハウスから学ぶ、あるべきコミュニティの姿とは?|はっぴーの家ろっけん、首藤義敬さんインタビュー<後編>

震災、そして復興の過程で見たもの

 

地震発生直後の神戸市。左側が長田区。(写真提供:神戸市)

 
ーー「暮らしのコミュニティを豊かにする」ですか。そうしたコミュニティを築き上げる目的は何でしょうか?
 
首藤:目的として大事にしているのは「防災」なんです。「はっぴーの家ろっけん」を立ち上げたきっかけは、前編記事でお話したとおり自分自身の家族のためでした(リンク)が、もっと遡れば、1995年の阪神・淡路大震災が最初のきっかけなんです。「はっぴーの家ろっけん」は、長田区の「新長田」という地域にあります。そこは、震災の被害が特にひどかった地域で、当時私は小学3年生でしたが、その時のことを鮮明に記憶しています。
 
ーー確かに、神戸市の中でも長田区は大変な被害があったと伺っています。実際、当時はどういった様子だったのでしょうか?
 
首藤:朝起きると、周辺はもうぐちゃぐちゃで火の海で、もはや警察や消防ですら機能していない状況でした。その中で印象的だったのは、地域の人々がバケツで水をかけたりして、お互いに助け合っている姿でした。あの家には誰が住んでいて、何人が住んでいるという、互いに顔の見える関係だからこそできる互助の姿がそこにありました。
 
その後、新長田に再開発の計画が持ち込まれます。当時の行政の人は「前よりももっと良い街になるよ」と言ってくださりました。周囲の大人は街が良くなると信じていましたし、僕も信じていました。
ですが、これがおかしな方向へと進むんですよね。なんというか、たしかに新しい建物ができて、街はきれいになったのですが……。
 
ーーおかしな方向とは……?
 
首藤:私は震災前の新長田もギリギリ覚えていまして、当時はお世辞にもきれいとは言い難いものでしたが、それでも人のつながりがあったので、暮らしやすい街でした。僕の両親は共働きだったのですが、街の中に居場所がたくさんあったので寂しくはなかったんです。
 
震災直後は仮設住宅が建ちましたが、そのときも近所のおじいちゃんやおばあちゃんが助け合って生活していました。ところが、再開発で復興住宅が完成して、それぞれが入居していくと、そういったつながりが分断されてしまったんですよね。「そういえばあのおばあちゃんどうなったんやろ」といった具合に、気は掛け合うのですが、気づけば亡くなっていた、みたいな。
再開発で変わりゆく街の姿を見て、違和感がすごくありましたね。
 
ーーそうした違和感はなぜ生まれてしまったのでしょうか?
 
首藤:結局のところ、建物のようなハード面だけではなくて、人と人とのつながりといったソフト面も構築しないといけなかったんだと思います。神戸って言うと、おしゃれなハーバーランドや綺麗な夜景を連想される方も多いと思いますが、若者から高齢者はもちろん、外国籍の方も多く住む、多様性あふれる暮らしの街なんです。
昔の神戸港は、いろんな方々が入り乱れるごちゃごちゃした場所だったようです。僕はこのように人びとの出会いがあって、別れがあって、ごちゃごちゃな中で新しい文化が生み出されていくのがあるべき港街の姿ではないかなと思っています。
 

写真提供:はっぴーの家ろっけん

 

「コミュニティ」ってなんだ?

   

Author

 

他力本願ネット

人生100年時代の仏教ウェブメディア

「他力本願ネット」は浄土真宗本願寺派(西本願寺)が運営するウェブメティアです。 私たちの生活の悩みや関心と仏教の知恵の接点となり、豊かな生き方のヒントが見つかる場所を目指しています。

≫もっと詳しく

≫トップページへ

≫公式Facebook

掲載日: 2021.10.01

アーカイブ