タイの仏教信仰はどんなもの?タイで暮らした日本人に聞いた|古山裕基さんインタビュー<前編>
「揺れ動く現場」を見ようとして。古山さんがタイに行くまで
(写真提供:古山さん)
――古山さん、今日はよろしくお願いします。はじめに、古山さんがタイで暮らすまでのエピソードを教えていただけませんか?
古山裕基さん(以下:古山):僕のタイとの馴れ初めは、高校時代まで遡ります。高校2年生の時に東京の百貨店でたまたま見た報道写真展で、長倉洋海(ながくら・ひろみ)さんというアフガニスタンで活動を続けている写真家に魅了されました。
大学卒業後、一度は就職をしたのですが、やっぱり僕は長倉洋海さんが写真で表現していたような、世界中の「揺れ動いている現場」に行きたい気持ちが強く残っていたんですね。それで、その会社を退職して、当時知人が住んでいたタイへ行くことにしたんです。それがタイとの最初のご縁でしたね。
タイでの生活とは?
――タイに行かれてからは、どんな生活をされていたのですか?
古山:最初の半年間はタイに住む知人の家で居候していましたが、いざ行ってみたものの、僕は何をすれば良いのか、何に興味を持っているのかが分からなかったんです。
あれこれと悩んでいる時に、学生の時にお世話になっていた方がスタディーツアーでタイに来る機会があり、そこに合流することになりました。
これがタイでの印象深いご縁となりました。スタディーツアーで行った場所はタイの農村部にある、50人くらいの子どもたちが暮らす児童養護施設でした。
バンコクでは都市化、近代化が進んでいますが、僕が訪れたところは農村部で、電気や水道も通っていないところでした。雨季の間に貯めた水を使い、灯はランプの炎、料理は七輪と、現代の日本では想像できないような生活を送っていました。
数日経って突然、通訳で同行していた青年海外協力隊の方に、1年間何もしなくていいからこの施設で暮らしてみたら?と提案していただいたんです。そんな簡単に住めるはずがないと思っていたのですが、意外にも施設長が二つ返事でOKを出してくれて。書類選考とか、そういったやりとりは一切ありませんでした。
スタディーツアーが終了し、メンバーは日本に帰ったので、僕だけ置き去りにされたような感じです(笑)。
――そこではどんな生活をされていましたか?
古山:児童養護施設の支援ボランティアという名目で生活をしていましたが、実際はなんの役にも立ちませんでした。タイ語もほとんどわからない状態だったので、辞書で調べながら「食べる」、「寝る」、「帰る」といった単語でコミュニケーションを取りつつ生活をしていました。
農作業も手伝いましたが、稲刈りで自分の手を切ってしまうわ、水田のぬかるみに嵌って出られなくなるわ……。子どもたちを助けるどころか、むしろ僕が子どもたちに助けてもらうばかりでした。本当に情けなかったのですが、それでも子どもたちは一生懸命、僕とコミュニケーションを取ろうとしてくれましたし、あれこれと教えてくれましたね。