責任ってなんだ? 被爆者三世の久保光雲さんが抱いた感情とは


 
ブラジルのノロエステ本願寺主管 久保 光雲(くぼ・こううん)さんのインタビュー第2回。
広島県で生まれ育った久保さん。中学・高校時代には学校の平和学習を通して、原爆や戦争のことを考える機会がありました。しかし「原爆の感想文を書くうちにだんだん虚しくなっていった」と振り返ります。なぜ久保さんは虚しさを感じていたのでしょうか?
 
今回は、久保さんが過ごした中学・高校時代のお話や、広島での平和教育などを通して得た気づき、違和感についてお聞きしました。
 

 

 

多様な考えに触れた中高時代

 

12歳の久保さん。お正月に原爆ドーム前で

 
ーー中学・高校時代はどのような生活をされていたのですか?
 
久保 光雲さん(以下:久保):私は中学・高校と、広島女学院という1886年に設立されたキリスト教のプロテスタント派のミッションスクールに通っていました。
初代校長のアメリカの女性宣教師N.B.ゲーンズ先生は、明治時代に若くして、たった一人でアメリカから渡ってこられたという方で、私は先生に畏敬の念を抱いていました。
今思うと、当時から志をもって異国へ赴くことに憧れをもっていたのかもしれません。
 
最初の3年間は、キリスト教に魅了されました。パイプオルガンの美しい音色、ステンドグラス、そして何より心に響く聖書の言葉。とくに好きだったのは、
 
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」
 
という聖句でした。すべての人がこのような高尚な愛を目指せば、戦争など無くなるのではないか。私はそういう愛をもてる人になりたいと思いました。
 
女学院は英語教育に熱心な学校で、当時としては珍しく、英会話の先生はアメリカ人でした。私は教科書だけで学ぶよりも、実際にコミュニケーションして理解し合える英会話が好きでした。そして異文化と触れ合う喜びも与えてもらいました。
 
父親の影響で映画が大好きだった私は、とにかくたくさんの作品を見ましたね。母親に付き添ってもらい、オールナイトの名画5本立て上映を寝ずに見たりもしました。
本も好きで、往復2時間ほどの電車通学は読書タイムでした。行き帰りだけで一冊読む日もよくありました。フランソワーズ・サガンやヘミングウェイなど海外の小説をよく読みました。さまざまな考えに触れることができた中高時代でしたね。
 
ーー映画もたくさん見たとのことですが、その中でも一番印象に残った映画はなんでしょうか?
 
久保:印象に残ったのは『愛と哀しみのボレロ』(*1)でしょうか。第二次世界大戦前から現代まで、ルドルフ・ヌレエフ、ピアフ、カラヤン、グレン・ミラーなどの芸術家が過ごした、過酷な戦争時代を描いたものです。
 
ルドルフ・ヌレエフがボレロで踊るバレエは圧倒的な美しさで迫ってきますし、カラヤンの魂を揺さぶるような音楽も素晴らしい。
そしてユダヤ人の収容所など、戦争の無慈悲さが描かれていきます。非常に美しく、残酷な映画なのです。
 
そのパンフレットに
 
「人生には2つか3つの物語しかない
しかし それは何度も繰り返される
その度ごとに初めてのような残酷さで
―ウィラ・キャザー」
 
と書いてあったんですね。
その一文を読んだ時、胸を衝かれました。人生が儚く、苦しいことを見せつけられた思いでした。
 
人間というのは、大きく残忍な時代のうねりに翻弄されて生きるしかない。その中で私はどう生きたらいいのか、考えさせられました。
 

(*1)『愛と哀しみのボレロ』・・・フランスのクロード・ルルーシュ監督が1981年に手がけ、ルドルフ・ヌレエフ(バレエダンサー)、エディット・ピアフ(歌手)、ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮者)、グレン・ミラー(音楽家)という実在の4人の芸術家をモデルに、運命の糸に結ばれた人々の物語を描いた3時間を超える大作メロドラマ。
ベルリン、モスクワ、パリ、ニューヨークを舞台に、第2次世界大戦前から戦中、そして現在へと至る中で、芸術家たちのドラマチックな人生模様が描き出される。(映画.comより)

 
ーー人生は苦しみ、生きるのはつらいと共感されたのはどうしてでしょうか?
 
久保:私は広島生まれで、祖父も祖母も被爆者です。私は被爆者三世なのです。
叔父や叔母なども被爆し、親戚には悲しい死を迎えた方もいます。幼かった母の面倒をみてくれた祖父の妹・ミサさんもその一人でした。彼女は20代で被爆し、髪の毛が全部抜け、1か月で亡くなったのです。ミサさんの話を聞くたびに、痛ましく思いました。
 
両親からも戦争と原爆の話をよく聞いて育ちましたので、戦争は身近な問題でした。
しかし「若い世代の私が何をしていくべきか」と真剣に考えれば考えるほど、自分の無力さを感じていたんですね。
 
広島なので、募金活動や非核の啓発運動もあって、私も中高時代、案内ボランティアをやったりしました。実際に平和公園に赴いて、記念碑や平和公園の施設を説明・案内するという活動です。
しかし違和感というか……。「本当にこれをやることで平和に近づいているんだろうか?」という気持ちがありました。
広島の街を歩いていると、道端で「No more Hiroshima」と書かれた看板をかかげ座り込みをしている方々がおられます。ですが、その姿を見て、よし自分も座ろうとは思えなかったのです。
 
実際にあれほどの惨事があったのに、さらに威力の強い核爆弾が発明されてしまった。地球が何回も破壊されるほどのものを人間は持ってしまった。
そこに虚しさを感じてしまうんです。
 

では、私たちは何をすればよいのか?平和学習を通して抱いた疑問

 
ーーでは、中学・高校時代、具体的にはどんな平和学習があったのでしょうか?
 
久保:広島では平和教育週間というものがあります。その期間では、被爆者の方に話を聞くという宿題が出るんですね。原爆を経験した世代も元気でしたから、実際におじいちゃん、おばあちゃんに話を聞いて、どんなに悲惨だったかをメモして、感想文にして……。
 
広島女学院も平和教育に熱心で、私は前述したボランティア活動などをしました。
キリスト教の宗門校だったため、戦時中は周囲から良く思われていなかったそうです。そのような状況で、少しでも社会に理解してもらおうと、戦時中の生徒たちは人一倍熱心に工場で働いたり、食糧難を迎えてからは校庭を畑にして作物を育てたりしたそうです。
そうした努力にもかかわらず、学校の位置が爆心地に近いこともあり、校内の全ての施設が焼け、350名余りの教員・生徒が亡くなりました。被爆した多くの方が原爆投下直後は生き延びても、結局、火傷や肺結核などで亡くなっていったそうです。
 
平和学習の中でずっと言われ続けたのは「私たちは卒業生の屍(しかばね)の上で生きている。だから何らかの形で返す責任がある。広島に生まれてきた責任は重い」という言葉でした。
そのため、作文では毎回「私たちには責任があります」と綴っていたのですが、だんだん虚しくなっていったんですね。
 
ーーそれはどうしてですか?
 
久保:責任、責任と言っても、結局私たちは何をすればいいのか、こんなちっぽけな私に何ができるんだっていう疑問があったんです。
そんな疑問に対する答えがわからないまま、感想文を書いている自分に気づいたんですよ。原爆という惨事において「責任を取る」ということが何なのか、わからなかった。
 
その悩みは信仰にも影響するようになりました。広島女学院に入学した当初は、聖書に感動し、神の言われる愛を実践することに喜びを感じていましたが、4年目ぐらいからは喜べなくなってしまいました。
 
「キリストは私たちの罪を背負って犠牲になってくださった」と習ったのですが、それがどうしてもわからない。はるか昔に亡くなった人が、どうして私の代わりになれるのか?また「そもそも神はいるのか?」という疑問が、私に重くのしかかってきたんです。自分のやっていることが偽善に思えて、私は天国へ行けないのではないかと思うようになりました。
 

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記事作成:他力本願.net
掲載日: 2021.07.19