お寺生まれの音楽少年が、浄土真宗の僧侶になる旅路|五藤広海さんインタビュー<前編>
五藤広海さん(画像提供:五藤さん)
「ペロは、お浄土にいけるって説かれてるの?」
岐阜県可児市の光蓮寺を拠点に、音楽イベントや、別離の感情に向き合う「いのちの学校」、そして別離を体験したひとのサポートをおこなう一般社団法人リヴオン常務理事など、多くの活動を精力的に続ける浄土真宗本願寺派の僧侶、五藤広海(ごとう・ひろみ)さん。
生きづらさや、他人との関係に悩みながら、音楽の道に進み、そして愛犬との別れに疑問を抱いて僧侶への道を志したといいます。前編となる本記事では、五藤さんの青春時代と、僧侶となるまでのいきさつを伺いました。
生きづらい子ども時代
――幼少期、五藤さんはどんな子どもでしたか?
五藤広海さん(以下 五藤):学校があまり楽しくないタイプの子どもでしたね。なんで友だちと「同じ」じゃないんだろう、という感覚はありました。お寺に来てくださる方からの、「将来お坊さんになるのかな」「長男さんだからね」という言葉のひとつひとつから、少しずつ圧力を受けていたのかも知れません。将来についての作文なんか書かされようものなら、「模範解答」が用意されているような気がしました。自分が何者かを常に意識させられるような生きづらさが根底にあったように思います。
――少しずつ、色々なところから「生きづらさ」のようなものを感じていたんですね。
五藤:そうですね。ただ、残念ながら仏教はまだその頃の自分の生きづらさのそばにいてくれた感じがなくて。中学二年生の頃に僕を溺愛してくれていた祖父が亡くなったんですが、思い出して悲しくなってしまうから、本堂にも、仏壇の前にも近寄りたくありませんでした。葬儀や法事すら、出たくないとゴネた記憶があります。
音楽との出会いと、東京での生活
――五藤さんの子ども時代を支えてくれたものはなんでしたか。
五藤:中学二年生の頃、塾帰りに幼なじみの家に寄ったら、アコースティックギターがあったんですよ。その当時の僕の中では、楽器で音楽が弾けるというのはとても「かっこいい事」だったんですよね。その幼なじみの彼から教えてもらったことをきっかけに、むさぼるように音楽を聞いて、練習して。音楽の世界にどっぷりとハマっていきました。
学生時代の音楽活動風景(画像提供:五藤さん)
――高校に進学されてからも、音楽は続けられたのでしょうか。
五藤:高校は岐阜聖徳学園高等学校に進学しました。家からはだいぶ遠かったんですが、その頃の岐阜駅前は路上ライブをしている人たちがたくさんいました。それを見て、僕もやろうと思いまして。そこから学校帰りに路上ライブをするような高校生活をおくりました。
その後もお寺なんて絶対継ぎたくない、音楽の勉強がしたいと、母に対してゴネまして。ただ、音大にいけるような成績ではなかったので、東京にある専門学校に通わせていただきました。
――東京での生活で、特に印象的であったことはありますか?
五藤:東京は色んなことが刺激的でした。二年目から一人暮らしを始めるんですが、そこに一緒にバンドをやっていた友だちが転がり込んでくるんですよ。彼との生活が東京での経験のなかで一番刺激的でしたし、自分がお寺に帰るきっかけでもありました。
――「彼」との生活はどのようなものでしたか。
五藤: 彼には「休みの日にバイクに乗って海を見に行こう」なんて僕を誘ってくれる活発さがありましたし、映画や音楽も僕より詳しかった。
でも一方で不安定さがあって、上手くいかないとモノにあたる、なんてことはしょっちゅうでした。僕に対しても心理的なマウントをとるようなコミュニケーションで接していましたし、実際に殴られて目の上を腫らしたこともありました。ほぼDV(家庭内暴力)ですよね。そんな生活を1年半ほどして、耐えられなくなってお寺に帰ることにしたんです。