お寺生まれの音楽少年が、浄土真宗の僧侶になる旅路|五藤広海さんインタビュー<前編>
――五藤さんが出会われた「信仰の姿」とは、どのようなものでしょうか。
五藤:企業に勤めていたけれど、お寺生まれの女性との結婚を機に入学したという友だちがいたんですが、彼が自分より若い友人を亡くすんですね。僕は、その彼がある日、中央仏教学院にある本堂で、ひとりで仏さまに向かって手を合わせている「信仰の姿」を見るんですよ。
特に宗教的なバックボーンを持たなかった彼が、多くのご縁でここまで来て、そして仏さまに手を合わせている。「その手を合わせたいという心はいったいどこからやって来たんだろう」と考えると、それまでちょっと他人事として聞いていた「どこかの誰かを救う仏さまの教え」が、途端に「いまここで友だちと、友だちの友だちを救う仏さまの教え」という地続きのイメージへと切り替わる、という体験をしました。
僕は、自分のことをいわゆる宗教的な人間とは思っていません。概念的なお救いの話をしているときにはあまり興味を持てないんです。ですが、目の前にいる友だちや、近所のおじいちゃんおばあちゃんのような、距離が近い人たちからお葬儀を引き受けたときなんかに、やってくるんですね。自分の日常の世界と、聞かせていただいていたみ教えの世界が「重ならざるをえない」ようなタイミングが。
――日常の世界とみ教えの世界が「重ならざるをえない」タイミングとは、どういうことでしょうか。
五藤:普段は、祖父や、愛犬の「行き先」を、今生きている日常とはかけ離れたものとして捉えている自分と、そうした宗教的な世界を理想としてその中で生きていきたい自分の両方がいます。カチッと切り替わるんじゃなくて、その両方の「あわい」で生きているとでもいえば良いのか。
でも、自分が揺るがされるような事件が起きたとき、その両者が重なるんですよ。僕のような、本堂にもお仏壇の前にも行けなかったような人間が、現実的な行動としてそれを選択して、手を合わせようと思える。そんなタイミングが人生の中で何度か来るんでしょうね、きっと。
生きている人と亡くなった人がともにすごせる場を|五藤広海さんインタビュー<後編>