認知症と親子関係。支援を通して気づくこと|お寺で知る終活講座第2回レポート
東:そもそも認知症は老化現象。私たちはある意味で全員「認知症」。20歳以降は徐々に認知機能が低下していく。認知症と呼ぶか呼ばないかの違いは日常生活、社会生活に困っているかどうか。
認知機能は誰でも低下するが、生活に困った状態を認知症と言う。何をもって困る状態かは環境や人によるが、いろいろなパターンがある。
増本:私も最近は日傘をよく忘れる。でも、誰かの名前や物を忘れる状態は認知症とは言わない。認知症は、化粧の変化、服装の変化、ペットの変化(給餌の変化で太ったり痩せたり)など、外見や生活にも現れてくる。ちょっと注意を向けてもらえたらと思う。
近所や知り合いの方にこういう方がいた場合は見守ってほしい。地域で支え合うことが大切だ。
増本:人それぞれ異なるので、そういう意味で確かに難しい質問。かつては私も「加齢=老い」と戦っていたと思う。年々、自身の容姿・体力が落ちて行く。若さを基準に考えると、「加齢=老い」はネガティブなこと。
肌艶が悪くなりシワが増えると化粧品を買い変える。体形が変わると美容体操を始める。サプリメントに頼る。そうやって私は「老化」に抗っていた。
しかし現実には、日々容姿も体力も認知機能も、確実に落ちて行く。抗えば抗う程、自分が惨めになっていった。
そう言うプロセスを経て、「抗うのではなくその変化を受け入れるのも悪くはないのではないか」、と考えられるようになった。現場経験から、精神的に成熟した多くの認知症の方を見てきたこともある。
例えば、コップにワインが入っているとするならば、その状態をもう半分しか残っていないのかと思うか、まだ半分もあると思うのか。それが物事に対する受け止め方の違いなのではと思う。
増本:確かに介護者が精神的に追い詰められることもある。一方で周囲から見れば大変だな、と思う状況であっても、家族で介護をしたいという方がいらっしゃるのも事実。誰しもが鬱になるわけではない。それまでの親子関係も影響すると思うので、実に多様。
サービスについては、利用することで家族が休む時間が生まれてホッとできる。その時間があれば在宅で看ていける、というのであれば、それもサービスの使い方だと思う。反対に他人に任せるのが嫌だという考えも尊重する。
ただし、介護をいつまで続けられるか分からない。体力的、精神的な負担がかかる。それぞれの家庭でどのような形が良いのかを考え、サービスを選択されればと思う。
東:親世代からどうしてほしいかの答えを示して欲しい気持ちも分かるし、もちろん、答えがある方がいいと思う。でも、おそらくそんな簡単に決められない。状況による。一度決めたことでも考えが変わることもあるので、そんなにきっちり決められない。
一方で、「親に対してどうしたいか」は自分で決めておける、ということを子世代に対して伝えたい。前もって具体的な状況を想像しておくと、いざという時に対応しやすくなる。
公的なサービスについては、ぜひ頼っていただければと思う。しんどい思いをして介護を家族が全部やる必要はないし、排泄介助といったしんどいことは医療や行政に任せ、楽しいことだけをご家族でしていただいてもよい。
どこまで介護をしたいかは、ご自身の中で考えていただく時間があっても良いのではないかと思う。
終活とは
「超高齢社会」、「人生100年時代」といわれる中で、「終活」への関心が高まっています。この「終活」という言葉は週刊朝日で生まれた言葉であり、一般的には「人生の終わりのための活動」と認識されています。ともすれば、死ねば全てがおしまいと簡単に片付けてしまったり、つながりの中で生きているという視点が抜け落ちてしまいがちです。いついかなるきっかけで命が尽きるかわからない無常の世を生きながらも、確かな依りどころをもって精一杯生き抜くことが本当の「終活」といえるのではないでしょうか。