宗教者だからできること、宗教者じゃないからできること|せいざん株式会社インタビュー④
周囲に頼ることのできる人がいない高齢者が増えている。ひとりで老病死を抱える人に、寄り添おうとするせいざん株式会社の取り組みから、宗教やお寺にできることはなにかを考えていく。
葬儀の現場で。「知らない人」が損しないために|せいざん株式会社インタビュー①
孤独な社会と、宗教者
ーー相談者の方々が抱える思いに触れるなかで、宗教者の必要性というのは感じられますか?
池邊:はい。供養の問題に関して、前提として世の中の人と人との繋がりのあり様が反映されてきているんだと思っているんです。今は孤独が蔓延する社会。やはり何も信じられない、自分のことすら信じられない世の中ってすごく生きづらいですからね。そういう社会のなかで、やはり何かを信じる力って人を生かすなって思うんです。
信じるものは家族でも良いし、友人でも良いし、知らない誰かでも、宗教でも哲学でも良いとは思っています。
ーーそうですね。
池邊:老病死の見通しが立つということは、より良く生きることにすごく繋がると思うんです。今、老病死がマイナスイメージで語られるなか、そこに光を見出すとすれば、何か信じられるものを持つということじゃないかなと私は考えています。
それは、誰かにとっては仏教の教えかもしれないし、僧侶という存在かもしれない。そのあたりはいろんな可能性があるんじゃないでしょうか。
ーーお寺というのはある種、普段の生活の場とは違う空間ですからね。生きづらいという方には居場所になるかもしれない。
池邊:社会って、親と子とか、先生と生徒、上司と部下って上下の関係がとても多いじゃないですか。そういうなかで評価されないっていうのは辛くなってしまいます。良い子じゃないとだめだとか、成績が良くないとだめだとか、求められているものに応えようとして、でもできないときってすごく苦しい。
そういう状態にある人、そこにがんじがらめになっている人は今多いんじゃないかと思うんです。そのなかで、宗教や哲学や、そういった世間の評価軸から離れたところに身を置けたらすごく楽になるんじゃないでしょうか。
ーー世間の物差しは、そこにはないですからね。
池邊:そうですね。そのままでいられますよね。許された気になるというか。そういうポテンシャルが寺院にはありますし、何か困りごとがあったら行く場所として機能していれば、法要や葬儀に関してもずいぶんスムーズだろうと思いますしね。
私たちも、なにか一緒に共同できることがあれば、もっと誰かの人生や社会の雰囲気をより良くしていけるのではないかと思います。