「当たり前」を問い直すことから得られるもの|清藤隆春さんインタビュー<後編>
シンガポールのヒンズー教の寺院(写真提供:清藤さん)
シンガポールやイギリスなど、数々の国を巡ってこられた清藤隆春(きよふじ・りゅうしゅん)さん。前回は、その経緯をお聞きしつつ、日本と海外の宗教観の違いを教えていただきました。
そんな清藤さんは現在、大学で異文化間教育に取り組まれているそうです。後編となる今回は、異文化間教育の様子や、そこから得られる気づきについてお話しいただきました。
世界中を巡って気がついた、海外の宗教観とは?|清藤隆春さんインタビュー<前編>
「当たり前」を問い直すから理解が生まれる
――清藤さんは現在大学で「異文化間教育」に取り組まれているとのことですが、これはどういったものでしょうか?
清藤隆春さん(以下:清藤):「異文化間教育」とは、異文化間の交流から生れた教育や、異文化との接触で生じた問題の解決を目指して行われる教育のことです。その中で、私は「宗教」に着目して取り組みを進めています。
宗教は本質的に人間にとって必要だと思っています。人間に必要不可欠なものだからこそ、それについて会話すると異文化を理解しやすくなるんです。
また、そんな宗教を理解しようとするときこそ、相手や自分の立ち位置を知っていけると思うんですよ。日本人学生が外国人学生を理解しようとするとき、自身の宗教、あるいは自分の国の宗教について知らないことに気づくんです。そんな様子を見ていると、理解しようと努力する姿勢が大切なんだと改めて気づかされます。
――たしかにお互いの宗教を理解しようとすることで、人と人とがわかり合っていくという構図は、実は自然なことなのかもしれません。例えば知らない宗教でも共通点が見つかれば理解への大きな一歩になると思うのですが、清藤さんが思われる宗教の共通点はありますか?
清藤:地球のどこに生まれたとしても、人は生まれたら必ず死にます。その時に遺された人はどうするか、やはり大抵は故人を大切に「埋葬」するんですよね。そこは共通しますが、その埋葬方法が異なります。日本では一般的に火葬されますが、イスラム教では絶対に火葬はせずに土葬です。これには理由がありますし、学生たちは「なんで?」と関心を持ったら、自然とそれぞれの理由を自ら調べ始めます。その関心を持つ仕掛け作りが大切だと思います。
――清藤さんが学生に教えられていることは、宗教に関わらず人間関係を構築するうえで非常に重要なのではないでしょうか?
清藤:そうですね、普段の人間関係についてもそうだと思います。相手を理解しようとする前に、全否定をするとコミュニケーションは生まれません。興味を持つ姿勢が必要だと思います。私は学生に、例えば英語を使うなどの言語ギャップや、明確な文化ギャップを持った人と関わる形で、自身の文化への尊重、自分中心から他者の寛容というような意識を養ってもらえたらと考えています。
以前、仏壇に関心を持っている欧米の留学生がいました。その学生は、「どうして日本には家で手を合わせる習慣があるのか?」と不思議に思っていたんですね。その問いを実際に日本人学生へ投げてもらったところ、日本人学生も「そういえばどうしてだろう」と。欧米の学生が自分たちのことに興味を持ったことで、説明してあげたいと思ったと同時に、今まで当たり前だと思っていたことに疑問を抱いたんだと思います。
そこから発展して、欧米の学生は日本に根付く仏教がキリスト教と関連しているか?など、日本人学生にはない新たな視点をもって質問していくんですね。最終的に学生みんなで「日本人は死をどう考えているか」について考えることとなりました。自分が腑に落ちるまでとことん理解しようとする。この流れを教育の中では大切にしています。
学生たちには、異文化交流を通して「当たり前」を問い直してほしいですし、私自身も問い直せたらと思っています。
――そんな問い直しを繰り返されている清藤さんが思う、浄土真宗の好きなところは何ですか?
清藤:強みは「わかりづらい」ようで「わかりやすい」ところ、またとても優しい宗教だというところでしょうか。何かをしなくては救われないという条件のようなものがなく、阿弥陀さまのほうから必ず救うと向かって来てくださる教え。それは本当に弱っているとき、うまくいかないときに、このありがたさに気づかされます。